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2007年5月 6日 (日)

今日は何の日文学者たち

佐藤 春夫(さとう はるお、詩人、小説家、作家、男性、日本人、1892年(明治25年)4月9日-1964年(昭和39年)5月6日没、享年72歳)和歌山県出身。彼は下里町で6代続いた懸泉堂という医家の長男として生まれた。父(佐藤豊太郎)は自分の代になってから和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に移り住み、彼が生まれた外科病院を開業していた。裕福な家庭で、父も狂歌や狂句をこよなく愛し、鏡水という号まで持っていた。1909年(明治42年)幼き頃より文才があった彼は創刊号の『スバル』に短歌10首を発表するなど文筆活動を行っている。同年、1909年(明治42年)3月、歌人として有名な与謝野寛、洋画家の石井柏亭、評論家生田長江らを招いた文芸講演会が行なわれることなり、訪れた生田長江、與謝野寛、石井柏亭などと知り合いになった。生田長江の勧めだという説があるのだが、公演会の20分前に『偽らざる告白』と題して講演をした内容が、当時の時代背景にはそぐわない、額に汗して働け、の時代に、「偽らざる告白」を行なったと彼の講演内容が当時の教育界で問題視され、和歌山県立新宮中学で無期停学処分をうける。1910年(明治43年)、新宮中学を卒業し、評論家生田長江を頼って上京する。生田家に世話になり、生田門下に入った彼は、ここで終生の友となる堀口大學と知りあう。この年、1910年(明治43年)に慶應義塾文科の教授に永井荷風がなったことを聞き、堀口大學とともに慶應義塾大学の予科文学部に入学する。翌年、1911年(明治44年)に父の友人でもあり、彼とも知り合いであった大石誠之助が『天皇の暗殺を計画したとされる大逆事件の判決』で処刑され、大石を弔う詩として『愚者の死』を発表する。この詩の内容は、すべてにおいて国や裁判の不正に対して反語的な表現で描かれており、国民の中に憤りを感じていた人々から共鳴、共感を得ている。1913年(大正2年)に同大学を退学するまで『三田文学』や『中央公論』などに寄稿しながら執筆活動を続ける。だが、退学してから文学にいき詰ったようで精神的にも弱り、絵画、特に油絵に心が動かされている。1915年(大正4年)、1916年(大正5年)、1917年(大正6年)に第2・3・4回二科展に連続で入選を果たしている。1916年(大正5年)、神奈川県都築郡中里村(現在の横浜市青葉区鉄町)に犬二匹と同棲相手の女優とともに転居する。彼のその当時の生活を題材とした執筆もあり、その作品が『田園の憂鬱』と『お絹とその兄弟』といわれている。そして、彼が脚光をあびる作品群が次々と世に現れだすのである。転居した1917年(大正6年)には処女作『西班牙(スペイン)犬の家』に感銘を受けたと谷崎潤一郎から手紙をもらい、詩人から散文作家に転じるきっかけになったようである。翌年1918年(大正7年)には師であり友人となった谷崎潤一郎の推薦により『李太白』で文壇に華々しくデビューを飾る。『田園の憂鬱』の元型である『病める薔薇』なども続いて発表する。だが、心が癒されなかったのか精神的な疲れからか、1920年(大正9年)に和歌山県新宮市に帰郷している。そして、米谷香代子とも離婚し、気分転換のためか、心機一転のためか、台湾旅行にも出掛けている。翌年、1921年(大正10年)に『秋刀魚の歌』を発表し、処女詩集として有名な作品『殉情詩集』を刊行する。その頃に、作品『お絹とその兄弟』『美しき町』などを発表する。この年、1921年(大正10年)3月、佐藤春夫と谷崎潤一郎夫人の千代子との恋愛問題が発覚し、谷崎潤一郎と絶交状態になる。その谷崎潤一郎夫人の千代子を想う心境が『秋刀魚の歌』に描かれている。

『秋刀魚の歌』

あはれ

秋風よ

情(こころ) あらば

伝へてよ

――男ありて

今日の夕餉(ゆふ(ゆう)げ)に

ひとりさんまを食(くら)ひ(い)て

思ひにふけると。

さんま、さんま

そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせて

さんまを食ふ(う)はその男がふる里のならひなり。

そのならひをあやしみなつかしみて女は

いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。

あはれ、人に捨てられんとする人妻と

妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、

愛うすき父を持ちし女の児は

小さき箸をあやつりなやみつつ

父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ

秋風よ

汝(なれ)こそは 見つらめ

世のつねならぬ団欒(まどゐ(い))を。

いかに

秋風よ

いとせめて

証(あかし)せよ

かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

あはれ

秋風よ

情(こころ)あらば伝へてよ、

夫を失はざりし妻と

父を失はざりし幼児(おさなご)

とに伝へてよ

―男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食(くら)ひ(い)て

涙をながす と。

さんま、さんま、

さんま苦いか塩つぱいか。

そが上に熱き涙をしたたらせて

さんまを食(くら)ふ(う)はいづこの里のならひ(い)ぞや。

あはれ

げにそは問はまほしくをかし。

彼の『秋刀魚の歌』(1921年(大正10年))は、有名な詩であるとともに、よくサンマの話題のときに出る詩である。そして、彼は1923年(大正12年)に『都会の憂鬱』を刊行し、1926年に大正の批評を代表するとされている『退屈読本』を刊行する。また1929年(昭和4年)には訳詩集『車塵集』を刊行。『平妖伝』『ほるとがる文』などを発表。この間、小川タミと結婚することで谷崎潤一郎との交友を再び復活する。ところが、1930年(昭和5年)タミと離婚し、同年、あの有名な谷崎潤一郎『細君譲渡事件』、谷崎夫妻と彼が話しあい、谷崎の千代子夫人を彼が譲りうけるという三人連名の挨拶状が作成されたといわれている事件が起こった。余談だが、谷崎潤一郎はそれから10ヵ月後の1931年(昭和6)1月に 吉川丁末子と婚約し、同年、4月24日に挙式を上げている。また、翌年1932年(昭和7)12月に丁末子夫人と別居。1934年(昭和9年)10月に丁末子夫人と正式離婚し、翌年、1935年(昭和10年)1月松子夫人と結婚式をあげている。その後、佐藤春夫は1935(昭和10)に芥川賞の選考委員となり、1936(昭和11)には文化学院の文学部長を務める。1938年(昭和13年)『新日本』の編集に携わり、中国戦線におもむき、『東天紅』『戦線詩集』『大東亞戦争』などを刊行。1945年(昭和20年)佐久に疎開し、敗戦を迎えた。1948(昭和23)に芸術院会員となり、1951(昭和26)11月に郷土の新宮の市歌(1 黒潮めぐる紀の南 熊野の都新宮市 蓬莱なりとその昔 徐福もここに来たりとか 山紫に水明(きよ)く 人朗らかに情けあり /2 三つのみ山の一つとて 速玉の神ましませば 水にも火にも砕けざる 金剛の都市新宮市 山紫に水明く 人朗らかに情けあり /3 甍(いらか)連(つらな)る九千戸 伝統深き文化の地 み熊野川の川口に 桴(いかだ)の港新宮市 山紫に水明く 人朗らかに情けあり)を作詞している。また学校の校歌も、新宮市立緑丘中学校を筆頭に、福井県立武生高等学校、群馬県立富岡東高等学校、群馬工業高等専門学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立渋川高等学校、島根県立益田高等学校など数多く手がけている。1952年(昭和27年)『佐藤春夫全詩集』で第4回読売文学賞(第3回までは詩歌賞であったが、この回から詩歌俳句賞と名称変更された)を受賞。1955年(昭和30年)第6回読売文学賞(小説賞)を受賞。1957年(昭和32年:当時66歳)にして新宮を舞台にした『わんぱく時代』を発表。1959年(昭和34年)には秋刀魚にゆかりのある勝浦駅前に『秋刀魚の歌』、郷土を想う『望郷五月歌』が速玉大社境内におのおの詩碑が建立された。

望郷五月歌
『塵(ちり)まみれなる街路樹に 哀れなる五月(さつき)来にけり 石だたみ都大路を歩みつつ 恋ひしきや何ぞわが古里 あさもよし紀の国の 牟婁(むろ)の海山(うみやま) 夏みかんたわわに実(みの)り 橘の花さくなべに とよもして啼くほととぎす 心してな散らしそかのよき花を 朝霧か若かりし日の わが夢ぞ そこに狭霧(さぎ)らふ 朝雲か望郷の わが心こそ そこにいさよへ 空青し山青し海青し 日はかがやかに 南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ 心も軽くうれしきに 海(わだ)の原見はるかさんとて のぼり行く山辺の道は 杉檜(ひのき)樟(くす)の芽吹きの 花よりもいみじく匂ひ かぐはしき木の香(か)薫じて のぼり行く路(みち)いくまがり しづかにも昇る煙の 見まがふや香炉の煙 山賤(やまがつ)が吸ひのこしたる 鄙(ひな)ぶりの山の煙草の 椿の葉焦げて落ちたり 古(いにしへ)の帝王たちも通はせし 尾(お)の上(へ)の道は果てを無(な)み ただつれづれに 通ふべききはにあらねば 目を上げてただに望みて いそのかみふるき昔をしのびつつ そぞろにも山を下りぬ 歌まくら塵の世をはなれ小島(をじま)に 立ち騒ぐ波もや見むと 辿り行く荒磯(ありそ)石原(いしはら) 丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり 若者の憩へるあらば 海の幸鯨(さちいさな)捕る船の話も聞くべかり 且つは問へ 浦の浜木綿(はまゆう)幾重(いくへ)なすあたり何処(いづく)と いざさらば 心ゆく今日のかたみに 荒海の八重の潮路を運ばれて 流れよる千種(ちぐさ)百種(ももぐさ) 貝がらの数を集めて歌にそへ 贈らばや都の子等に』

1960年(昭和35年)第20回文化勲章を受勲、新宮市の初代名誉市民となる。1964年(昭和39年)5月6日、享年72歳でこの世を去った。1989年(平成元年)東京の春夫邸を新宮市に移築し、佐藤春夫記念館がオープン。彼は詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話などにとどまらず、外国児童文学翻訳・翻案などもこなす才能と努力の作家であり、大正・昭和と日本の文学界を引っ張ってきた人物であるとともに和歌山県新宮市の誇りであると私は思う。主な作品を纏めると、1921(大正10)から1926(昭和初期)までの作品には、『殉情詩集』『南方紀行』『都会の憂鬱』、詩文集『我が一九二二年』『侘しすぎる』『李太白』、訳書『ピノチオ』『女誡扇綺譚』『佐藤春夫詩集』『蝗の大旅行』『退屈読本』などがあり、1926(昭和初期)から1935(昭和10)までは『文芸一夕話』『厭世家の誕生日』『支那童話集』『神々の戯れ』 訳詞集『車塵集』『更生記』『心驕れる女』、詩集『魔女』『維納の殺人容疑者』『みよ子』『ぽるとがる文』『閑談半日』、1935(昭和10)から1945(昭和20)に『掬水譚』『絵本FOU』『熊野路』『泰淮画舫納涼記』詩集『東天紅』『戦線詩集』、詩劇『八雲起出雲阿国』、短編集『びいだあ・まいやあ』『山田長政』『奉公詩集』、1945(昭和20)から1955(昭和30)に詩集『佐久の草笛』、中国詩選『玉笛譜』『自然の童話』、詩文集『まゆみ抄』『抒情新集』『近代日本文学の展望』『近代神仙譚』『わが小説作法』『晶子曼荼羅』、1955(昭和30)代には随筆集『白雲去来』『小説高村光太郎像』『観潮楼附近』『小説智恵子抄』『わんぱく時代』『みだれ髪を読む』『わが龍之介像』『小説永井荷風伝』『詩の本』『極楽から来た』『美の世界』『詩文半世紀』『愛の世界』『佐藤春夫文芸論集』などがある。1963年(昭和38年)に作詞されたオリンピック東京大会の『賛歌』は、彼の没後5か月後、1964年(昭和39年)10月10日の開会式で斉唱されました。主な作品は、『殉情詩集』『南方紀行』『都会の憂鬱』、詩文集『我が一九二二年』『侘しすぎる』『李太白』訳書『ピノチオ』『女誡扇綺譚』『佐藤春夫詩集』『蝗の大旅行』『退屈読本』『文芸一夕話』『厭世家の誕生日』『支那童話集』『神々の戯れ』訳詩集『車塵集』『更生記』『心驕れる女』、詩集『魔女』『掬水譚』『絵本FOU』『熊野路』『泰淮画舫納涼記』詩集『東天紅』『戦線詩集』、詩劇『八雲起出雲阿国』短編集『びいだあ・まいやあ』『山田長政』『奉公詩集』詩集『佐久の草笛』、支那詩選『玉笛譜』『自然の童話』詩文集『まゆみ抄』『抒情新集』『近代日本文学の展望』『近代神仙譚』『わが小説作法』『晶子曼陀羅』、随筆集『白雲去来』『わんぱく時代』『みだれ髪を読む』『わが龍之介像』『小説永井荷風伝』『詩の本』『極楽から来た』『美の世界』などがある。新宮市立佐藤春夫記念館(〒647-0003:和歌山県新宮市新宮1番地(熊野速玉大社境内)TEL/FAX0735-21-1755は、昭和2年(1927年)東京都文京区関口町に建てられ、昭和39年(1964年)春夫が72歳で亡くなるまでを過ごした家を故郷の新宮市に移築し、1989年(平成元年)11月に記念館として開館したものです。例年、佐藤春夫誕生日(4月10日)の無料入館が実施されるなど、時期をみては佐藤春夫にちなんだ催しものも開催されていますので、興味があれば訪ねてみればと思う。(柴咲らんど) 

木村 荘十(きむら そうじゅう、作家、男性、日本人、1897年1月12日-1967年5月6日)東京出身。1932年、『血縁』でサンデー毎日大衆文芸賞を受賞。1941年、『雲南守備兵』で直木賞を受賞。作品は、『雲南守備兵』(1941)、冒険小説「黄金魔球」(少年少女譚海:昭和257月特大号、冒険小説「黄金魔境」(『少年少女譚海』昭和258月号痛快熱血冒険号)、『大地は轟く』『龍宮島』『庖丁太閤記―調理師界の王将小泉皓一郎伝』(1966)、『ぎやまん屋』(1956)、『私は自由です』(1958)、『浪人街道』(1955)、『黄金地獄』(1960)、『嗤う自画像』(1959)、『偽装の花嫁』(1956)、『痴情』(1948)、『捕物絵師』(1948)、『魔境五千哩』(昭和30)などがある。(柴咲らんど) 

モーリス ポリドール マリ ベルナール メーテルリンク伯(Count Maurice Polydore Marie Bernard Maeterlinck,劇作家、詩人、随筆家、作家、男性、ベルギー人、1862年8月29日-1949年5月6日)名前表記は、メーテルランクまたはマーテルランクとも日本では表記されている。彼はベルギーのヘントにある裕福な家庭に生まれた。経歴は学校を卒業するとパリで数ヶ月を過ごし、当時の象徴主義運動の活動に興味を持ったようである。1889年、戯曲『マレーヌ姫(La princesse Maleine)』がデビュー作となる。この作品の評価はフィガロ誌の文芸評論家オクターヴ・ミルボーも認める作品だったようである。続いて、『L'Intruse』『三人の盲いた娘たち(Les Aveugles)』『ペレアスとメリザンド(Pelléas et Mélisande)』などを書いた。それらは、当時の象徴主義的なニュアンスを表現した作品であった。その後、『青い鳥(L'Oiseau bleu)』を発表する。1911年には、ノーベル文学賞を受賞。テーマとして取り上げたものは『死と生命』といわれている。その後、1919年にルネ・ダオンと結婚、アメリカに渡る。1926年、作品『La Vie des Termites』を発表するが、その作品が南アフリカの詩人で科学者でもあったユージーン・マレースの作品『The Soul of the White Ant』の盗作ではないかと、問題になり、文学界から批判される。1930年、自作『Quinze Chansons』からとった名前をとったといわれている「オルラモンド(Orlamonde)」という名をつけた城をフランスのニースに購入する。1932年にはベルギー国王アルベール1世によって伯位を授ける。ただ、一説によると戦争との関係からか、ドイツ軍の当時同盟国であった日本には決して作品の版権を渡さないよう、遺言で書き記したという説がある。そこにいたる経緯は色々あったと思うが、戦争はこのようなところにも傷跡を残しているということは嘆かわしい限りである。有名な作品は、童謡のように幼い時に一度は触れたことのある童話劇『青い鳥』とおもいます。チルチルとミチルの2人兄妹が夢の中で未来や過去の国に、幸福の象徴といわれる青い鳥をさがしに行く筋書きで、結局のところそれは……。あとは読まれればといったところでしょう。次は1892年に彼がフランス語で書いた戯曲『ペレアスとメリザンド』(1892年出版)である。翌年、1893年にフランスはパリで初演をむかえている。内容は時代考証は中世、架空の国の森の中で狩に出掛けた国王の孫が森の中で謎めいた少女と知り合い……、のような1幕から始まる。それらは有名なのでご存知名な方が多いと思います。他の作品は日本語訳本の作品名で紹介します。『貧者の宝』『蟻の生活』『花の知恵』『死後の存続』『限りなき幸福へ』『白蟻の生活』『死後は如何』『温室』『理智と運命』などがある。岩波文庫から対訳タイプの『ペレアスとメリザンド』などです。(柴咲らんど) 

久保田 万太郎(くぼた まんたろう、小説家、劇作家、俳人、作家、男性、日本人、1889年11月7日-1963年(昭和38年)5月6日)東京出身。俳号は暮雨、傘雨を使用している。彼は、明治の浅草に生まれ、浅草を愛しながら、浅草を書き続けた作家である。府立第三中学の後輩に芥川龍之介がいた。その後、慶應普通部、慶應義塾大学を卒業。19567年(昭和32年)作品『三の酉』で読売文学賞を受賞している。作品は小説『末枯』『春泥』『むかしの仲間』『寂しければ』、戯曲『雨空』『大寺学校』、句集『道芝』『流寓抄』などが有名である。(柴咲らんど) 

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