2007年7月28日 (土)

今日は何の日文学者たち

江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、小説家、推理小説作家、評論家、男性、日本人、1894年(明治27年)10月21日-1965年(昭和40年)7月28日没、71歳)三重県出身。本名は平井太郎(ひらい たろう)。アメリカの文豪である推理小説の祖と言われているエドガー・アラン・ポーからペンネームをもじってつけたといわれている。当初執筆作品の中には江戸川亂歩での筆名作品もある。彼は、郡役所書記の父、繁男(27歳)と母、きくは(18歳)の間に三重県名賀郡名張町新町(現在の名張市)で生まれている。家族は祖母の和佐との4人家族であった。1894年(明治27年)、父親の繁男の鈴鹿郡役所転勤に伴い、1歳に満たない乱歩も亀山に一家で転居している。その後、1897年(明治30年)父が東海紡織同盟会書記長となったことから、名古屋市に一家が転居している。1901年(明治34年)4月、乱歩は名古屋市白川尋常小学校に入学する。卒業後、愛知県立第五中学校(のちの熱田中学)に進み、1912年(明治45年)3月に卒業する。ただ、父が4年前に設立した平井商店の経営が振るわずその年の6月に破産。その年の8月に乱歩は苦学を承知で早稲田大学予科に合格したことから単身で上京する。1913年(大正2年:当時19歳)8月、早稲田大学予科を卒業し、経済学科に入学。1916年(大正5年)8月、早稲田大学を卒業。その後、大学で川崎克が出していた「自治新聞」の編集を手伝っていた関係から仲のよかった川崎克の紹介で大阪の貿易商の加藤洋行に入社している。ただ、その後、職業を転々とし、1917年(大正5年:当時23歳)11月に三重県鳥羽造船所に勤務する。また、1918年(大正7年)には鳥羽お伽会を組織し、雑誌「日和」の編集に携わることになる。1919年(大正8年:当時25歳)1月、1年あまり勤めた鳥羽造船所を辞職し、上京する。本郷で弟二人と古本屋「三人書房」を営み、雑誌「東京パック」の編集から屋台のそば屋など、さまざまな仕事に携わる中で、11月に昨年知り合った村山隆子と結婚する。結婚後、翌年10月(当時26歳)、弟二人と経営していた古本屋「三人書房」を廃業。大阪に今度は移転し、大阪時事新報記者となる。1921年(大正10年)3月、長男の隆太郎が誕生すると、翌月の4月に上京し、日本工人倶楽部書記長となる。翌年、1922年(大正11年:当時28歳)8月、乱歩は失業者となって大阪市守口の父の家に一家三人で身を寄せる。同年9月、「二銭銅貨」「一枚の切符」を執筆する。雑誌「新青年」の主幹であった森下雨村に原稿を送ると、翌年、「新青年」4月号に「二銭銅貨」が掲載される。同年7月、大阪毎日新聞社広告部に乱歩入社。「新青年」に「一枚の切符」「恐ろしき錯誤」などを発表。1924年(大正13年:当時30歳)11月、大阪毎日新聞社を退社し、その後、文筆活動に専念する。そして、「新青年」に「二癈人」「双生児」を同年発表すると、1925年(大正14年)4月に「探偵趣味の会」を大阪で結成する。同年9月、父の繁男死去。この年から「心理試験」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」などの初期短編小説を次々と発表。名探偵で有名な明智小五郎が初登場する「D坂の殺人事件」などで新進探偵作家として注目をあびる。1926年(大正15年:当時32歳)1月、東京に転居してからは長編小説「闇に蠢く」「湖畔亭事件」「パノラマ島奇談」の連載を開始し、短編では「踊る一寸法師」「お勢登場」「人でなしの恋」などを次々と発表した。同年12月、朝日新聞に「一寸法師」の連載を開始。1927年(昭和2年:当時33歳)3月、同年2月に連載が終了した「一寸法師」に嫌悪を感じ、乱歩は休筆を決意する。そして、乱歩は妻の隆子に下宿屋を営ませ、自分は放浪の旅に出る。1928年(昭和3年:当時34歳)、休筆からはや14ヶ月目、「新青年」に3回に渡って作品「陰獣」を発表。1929年(昭和4年:当時35歳)、長編作品「孤島の鬼」「蜘蛛男」の連載を開始。短編作品では「芋虫」「押絵と旅する男」「虫」などを執筆する。翌年、長編作品「魔術師」「黄金仮面」などの連載開始。1931年(昭和6年)、長編作品「盲獣」などの連載。1932年(昭和7年:当時38歳)3月、乱歩2度目の休筆宣言を決行。1944年(昭和8年:当時39歳)1月、執筆を再開するも、「新青年」11月号から「悪霊」の連載を始めるが、翌年1月号で中絶。1934年(昭和9年:当時40歳)、東京都豊島区池袋3丁目(現西池袋5丁目)に転居。作品「黒蜥蜴」「人間豹」の連載を開始。「中央公論」9月号に「石榴」を発表すると、1936年(昭和11年:当時42歳)、少年物として書き上げた「怪人二十面相」を連載。1939年(昭和14年:当時45歳)3月、警視庁検閲課から「芋虫」が全編削除を命じられ、隠栖を決意。その後、1945年(昭和20年:当時51歳)6月、福島県に疎開するが、同年11月に東京の池袋の家に再び戻る。1946年(昭和21年)6月、探偵小説興隆のため「土曜会」を結成。翌年6月、探偵作家倶楽部を設立し会長に就任。1949年(昭和24年:当時55歳)少年物「青銅の魔人」を連載。1950年(昭和25年)短編作品である「断崖」を発表。1951年(昭和26年)5月、探偵小説評論集『幻影城』を刊行すると、戦後初の長編作品「三角館の恐怖」を連載。1952年(昭和27年;当時58歳)3月、作品『幻影城』で第5回探偵作家クラブ賞を受賞。同年7月、探偵作家クラブの名誉会長となる。1954年(昭和29年:当時60歳)6月、ラジオ東京で「怪人二十面相」の放送が開始される。同年10月、還暦祝賀会にて江戸川乱歩賞の制定を発表(下記参照)。1961年(昭和36年:当時63歳)8月号から誌面を一新するなど雑誌「宝石」の編集経営に乗り出す。同年11月、紫綬褒章を受章。1963年(昭和38年:当時69歳)1月、日本探偵作家クラブが改組し、社団法人日本推理作家協会が発足。初代理事長に就任するも8月に辞任。1965年(昭和40年:当時71歳)7月28日、脳出血のため死去。同年、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。(柴咲らんど)

江戸川乱歩賞は、1954年(昭和29年)10月30日に行なわれた江戸川乱歩の還暦祝賀会の席上で、探偵作家クラブ(現在の日本推理作家協会)に江戸川乱歩が百万円を寄付することを明らかにし、これを基金とした探偵小説奨励の賞として制定されたのが江戸川乱歩賞である。趣旨は「その年度の探偵小説の諸分野において顕著なる業績を示した人に、過去の実績をも考慮して贈賞する」というもので、功労賞としての意味合いを備えた賞としてスタートしたものである。現在は、推理小説作家への登竜門として知られ、受賞作は講談社から出版化の話もある。1992年の第38回江戸川乱歩賞から後援にフジテレビも加入したため、受賞作がフジテレビでドラマ化もされ、また、映画化されることもある。正賞として与えられる像が第48回までは「シャーロック・ホームズ像」であったものが、第49回から「江戸川乱歩像」に変更され、江戸川乱歩色がより一層強くなった。(柴咲らんど)

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2007年7月27日 (金)

今日は何の日文学者たち

サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック Savinien de Cyrano de Bergerac、作家、哲学者、フランス人、1619年3月6日-1655年7月28日没、享年36歳)彼はフランスの剣豪としても有名で武勇伝多く、決闘の記録も残されているというが、美男子で鼻が大きかったらしい。1619年、パリ高等法院(Le Parlement de Paris)に所属する弁護士アベル・ド・シラノ(Abel de Cyrano)と、母であるエスペランス・ベランジェ(Espérance Bellanger)の間に、第四子としてパリのドゥ・ポルト街(rue Deux-Portes)(現在のデュッス-ブ街(rue Dussoubs)に生まれている。パリのボーヴェ学院(Collège de Beauvais)の前身リジュー学院(Collège de Lisieux)に10歳で入学後は1939年(当時:20歳)まで学業を学園で続けている。その後、彼は科学や哲学分野に目覚め、ガッサンディやラ・モト・ル・バイエの哲学思想の影響を受けている。また、彼は当時、詩人シャルル・コアポーと同性愛の関係にあったともいわれている。彼の代表的な作品は、1649年『レ・マザリナード』(Les mazarinades)、1651年『フロンド派に反対する手紙』(La lettre contre les Frondeurs)、1654年『アグリッピーヌの死』(La mort d'Agrippine)、1654年 『担がれた衒学者』(Le pédant joué)、1654年『書翰集(Lettres)』、1657年『別世界又は月世界諸国諸帝国』(Histoire comique des etats et empires de la lune)、1662年 『太陽諸国諸帝国』(Histoire comique des eats et empires du soleil)、1662年『物理の断片』(Le Fragment de Physique)などがあるが、彼のすぐれているところは、SF的な感覚の先駆的な作品とされる『月世界旅行記』が没後の1656年、『太陽世界旅行記』などが1662年にそれぞれ序文が付されて刊行され、彼が生前に研究していた草案をジャック・ロホーが1671年に『物理学概論』(Traité de Physique)として発表し、出版されるなど、彼の知識の一連の幅の広さである。36歳のとき、梅毒で亡くなる。(柴咲らんど)

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2007年7月26日 (木)

今日は何の日文学者たち

吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、エッセイスト、作家、1924年(大正13年)4月13日-1994年(平成6年)7月26日没、享年70歳)岡山県出身。彼の父は詩人の吉行エイスケ。母は美容師あぐり。父の吉行エイスケ(よしゆき・えいすけ小説家、詩人、作家、1906年5月10日-1940年7月8日、本名:栄助)は、自由至上社会主義(Libertarian Socialism)、いわゆる無政府主義とも称されるアナキズムの影響を多大に受け、学業の途中であった旧制岡山第一中学(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学すると、すぐに詩文学に没頭し、その年、当時まだ学生であった若き「あぐり」と1923年(大正12年)に結婚した。そして産まれた長男が淳之介であった。母である「あぐり」は1997年度上半期(4月-9月放送)NHK連続テレビ小説「あぐり」のモデルとなった人物で、彼女自身の半生記『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』が原作となっている。連続テレビ小説では、「あぐり」役を秋定里穂・田中美里、あぐりの夫の「エイスケ」役は野村萬斎、あぐりとエイスケの長男の「じゅんのすけ」役を鎌田佳祐・柴田卓也・生田斗真・大根田良樹・山田純大と多数の演技者が演じ、人気を博した。また、母である「あぐり」は岡山県立第一岡山高等女学校在学中に作家吉行エイスケと結婚するが、その3年後の1926年には、日本美容師界の草分け的存在であった山野千枝子のもと2年間の美容師修行を経て、1929年(昭和4年)に独立開業する。その美容室の名が、山の手美容院である。あぐりは夫のエイスケとの死別後は、辻復と再婚している。ここで、吉行淳之介の話に戻る。学業に関しては、麻布中学を経て旧制静岡高校(現静岡大学・文系仏語クラス)に進むのですが、時代の流れから1944年(昭和19年)、20歳で召集されています。ただ、入営するが直後に気管支喘息と診断され帰郷し、翌年徴兵検査の通知が届き、甲種合格するも召集はなかったようだ。1945年(昭和20年)4月に東京大学に入学するが、一カ月後の5月に東京大空襲で焼け出され、戦争はその年8月に終結し、彼も終戦を迎える。当時、同人雑誌の『世代』や『新思潮』などを通して安岡章太郎、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦朱門、島尾敏雄らと知り合っている。その後、新太陽社での編集アルバイトを経て、1947年(昭和22年)に正式に新太陽社に入社する。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わりながら、その時代の文学に携わっていった。1952年(昭和27年)になると、『原色の街』が芥川賞候補になる。ただし、受賞はできず落選となる。その後、作品『谷間』、『ある脱出』もたびたび賞の候補に上るが、落選し、肺結核と診断されたこともあり休職し、『谷間』発表の翌年、会社を退職している。清瀬病院で肺切除手術を受け療養中に描いた、1954年(昭和29年)作品『驟雨』が第31回芥川賞を受賞。体調のこともあり、収入がなく困っていたようで、これを機に本格的な作家生活に入ったといわれている。彼は、一度結婚して本妻との間に女児を一人もうけている。女性遍歴があり、女優宮城まり子と恋におちている。事実上の夫婦ではあったが本妻が離婚に応じなかったようである。また、淳之介死後、晩年に愛人が別にひとり出来ていたことが公表された。没後、その晩年の愛人であったとする大塚英子が(河出書房新社、1995年)『「暗室」のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』を発表、その後、女優宮城まり子が(文芸春秋、2001年)『淳之介さんのこと』で発表、本妻の吉行文枝が(新宿書房、2004年)『淳之介の背中』で、それぞれそれらのことも発表している。彼の偉業を称え、1999年に静岡県掛川市の社会福祉施設「ねむの木学園」敷地内に吉行淳之介文学館が開館している。最後に彼の作品ですが、芥川賞受賞作品『驟雨』、芸術選奨文部大臣賞受賞作品『星と月は天の穴』、谷崎潤一郎賞受賞作品『暗室』、野間文芸賞受賞作品『夕暮まで』、読売文学賞受賞作品『鞄の中身』、講談社エッセイ賞受賞作品『人工水晶体』、『原色の街』『娼婦の部屋』『鳥獣蟲魚』『闇の中の祝祭』『すれすれ』『砂の上の植物群』『私の文学放浪』『恐怖対談シリーズ』など、多数出版されています。(柴咲らんど)

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2007年6月25日 (月)

今日は何の日文学者たち

エルンスト テオドールアマデウスE.T.A.) ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 詩人、小説家、画家、作曲家、音楽評論家、男性、ドイツ人、1776年1月24日-1822年6月25日)、洗礼名はエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム Ernst Theodor Wilhelm という。彼は3人兄弟の末っ子として生まれるが、いとこ同士の結婚であった父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマンと母ルイーゼ・アルベルティーネ・デルファーはどちらも法律家の家系で裕福ではあったが、彼が生まれると直ぐ、彼が2歳のときに両親が不仲となり別居している。暫くすると、母に引き取られた彼は母が精神を病んだため、おじおばに育てられることになる。少年の彼にとっては苦い経験をすることになった。その時期の彼のココロのフラストレーションが様々な芸術を通して彼の意識表現をもたらしたとされている。彼の経歴は、ケーニヒスベルク大学の法科を卒業すると、プロイセン王国の官吏となり、1800年、陪審判事となるが、いとことの婚約を突然破棄したり、職場の上司に反抗しトラブルを起こし、プウォツクへ左遷される。のち、ミハリーナ・ローラー=ツジンスカと結婚。1804年、昇進するが、ワルシャワへ移ると、ナポレオン軍占領下となり官吏を罷免される。その時、彼はミュンヘンでピアノ教師となるが、教えていたユリア・マルクという少女に熱烈な恋心を抱くようになる。このときの心境を彼は作品『黄金の壺』などに強烈に描いている。そして、時代の変遷を経てナポレオンが没落すると、1814年に再び大審院判事となる。彼はベルリンに戻り、昼間は裁判官の職を務め、夜は芸術家という生活を送った。晩年は脊椎カリエスで寝たきりとなり、身体が不自由になるが、最後まで芸術家らしく口述筆記で『隅の窓』などの執筆を続けたという。代表的な作品は、黄金の壷 Der Goldne Topf1814)、クライスレリアーナ Kreisleriana1814-1815)、悪魔の妙薬 Die Elixiere des Teufels1815)、カロ風幻想曲集 Fantasiestücke in Callot's Manier1815)、くるみ割り人形とねずみの王様 Nußknacker und Mausekönig1816)、夜曲集 Nachtstücke1817)、スキュデリ嬢 Das Fräulein von Scuderi1819)、牡猫ムルの人生観 Lebensansichten des Katers Murr1820)、蚤の親方 Meister Floh1822)、隅の窓 Des Vetters Eckfenster1822)、などがある。(柴咲らんど)

 東野辺 薫(とうのべ かおる、作家、男性、1902年(明治35年)3月9日-1962年(昭和37年)6月25日福島県出身。本名は野辺慎一(しんいち)という。彼は小学校の校長を勤めていた父・野辺保蔵(やすぞう)の長男として生まれる。安積(あさか)中学校(現・県立安積高等学校)を卒業し、早稲田大学に入学。1923年(大正12年)、早稲田大学の国漢文科を卒業ののち長野県大月中学校の教壇にたつ。その後、安達(あだち)中学校、会津(あいづ)、保原(ほばら)、福島女子、福島商業と中学校・高校の教師を歴任しながらも、執筆を重ね、1930年(昭和5年)東京旭出版部より戯曲「黎明(れいめい)を待つ人々」を刊行。続いて、毎日新聞社主催の懸賞小説に『国土』(こくど)が1位当選。9月から12月まで17回に渡って『サンデー 毎日』にも連載され、一躍有名作家となる。1943年(昭和18年)9月、東北文学1号に発表した『和紙』(わし)が第18回芥川賞を受賞し、翌年『文藝春秋』3月号に掲載された。この小説は、農民の肩を寄せ合い暮らす集落生活が舞台で、戦争という状況下におかる農民たちの哀しみやむなしさを描いた作品である。当時は戦争末期であったが、出版統制などの規制があり、作家として執筆、出版に細心の気配りをしながら作品を手掛けたようである。(柴咲らんど)

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2007年6月24日 (日)

今日は何の日文学者たち

  小島 貞二(こじま ていじ、漫画家、放送作家、演芸評論家、作家、男性、日本人、1919年(大正8年)3月21日-2003年6月24日没、84歳愛知県出身。彼は愛知県豊橋市生まれる。旧制豊橋中学『現時習館高校)を卒業。漫画家を目指して上京し、川原久仁於門下に入る。その後、子供のときから身体が大きく、身長が180センチを超える巨漢であったため、出羽の海部屋の力士となるが眼が出ず、文才が開花し、雑誌・芸能新聞の記者、東京日日新聞の記者、放送作家、評論家、作家として正岡容(まさおかいるる)門下で勉強を続ける。演芸に関する興味が大きく、笑文芸分野の振興にも力を注いでいる。『朝日新聞』千葉版の「千葉笑い」の選者として、1985年(昭和60年)の初回から彼が倒れるまで続けている。彼は、自らが携わってきた演芸や相撲を通して、伝統文化の振興と伝統文化を分かりやすく面白おかしく伝え興味をもってもらうことに、生涯をささげたような人物である。現行の出版本は、『びんぼう自慢』(古今亭志ん生・小島貞二)、『定本艶笑落語〈1〉艶笑小咄傑作選』『定本 艶笑落語〈2〉艶笑落語名作選』『定本艶笑落語〈3〉艶笑落語名演集』『茶汲み・芸談』(古今亭志ん生・小島貞二)、『志ん生廓ばなし ちくま文庫志ん生の噺〈5〉』(古今亭志ん生・小島貞二)、『志ん生の噺 1』『お笑い歌手 黄金時代』(CD-オムニバス、牧伸二、小島貞二、 安藤実親)、 『これが志ん生だ! 第7巻 泣き笑い夫婦春秋 34』(小島貞二・岡本和明)、『泣き笑い夫婦春秋 56 』(古今亭志ん生・小島貞二)、『禁演落語』『大相撲名力士100選 』など他にも多数ある。総数では200冊弱の作品を書き上げたといわれている。(柴咲らんど)

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2007年6月23日 (土)

今日は何の日文学者たち

国木田 独歩(くにきだ どっぽ、詩人、小説家、作家、男性、日本人、1871年(明治4年)7月15日(8月30日)-1908年(明治41年)6月23日)千葉県出身。幼名は亀吉、のちに哲夫と改名。他にペンネームとして、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などで執筆している。彼は千葉の銚子に生まれ、錦見小学校簡易学科、山口今道小学校をやんちゃではあったが優秀な成績で卒業すると、山口中学校に入学。その時、今井忠治と知り合う。1887年、学制改革の影響から退学。そして、親交のあった今井忠治の勧めもあって父の反対を押し切り上京。翌年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学。当時の時代背景から明治維新などに思想的に興味を持ち学生運動に没頭した。そのうち、徳富蘇峰と親交を結び文学の才が開花する。処女作となる『アンビシヨン(野望論)』を『女学雑誌』に発表すると、ますます彼は文学に興味を示している。続いて、『青年思海』などの雑誌に作品を寄稿。文学の道にどんどん進む中、この頃から彼は自分を見詰める意味からなのか、信仰に目覚め、教会に通いだします。そして、1889年7月10日に彼は名前を亀吉から哲夫に改名。1890年9月、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科から英語政治科へ転科。1891年1月4日、植村正久より洗礼を受け、熱心なクリスチャンとなる。この年、学校改革や校長鳩山和夫への不信感をあらわにして彼は学校を退学する。その後、家族と現在の山口県熊毛郡田布施町(麻郷村)に転居し、英語の教鞭をとるなどの活動を通して、文筆活動に専念する。彼の作風を形成したのは彼の出生の秘密抜きには語れないように思う。彼は、父とする国木田貞臣(専八、天保元年10月19日生)が旧龍野の藩士で、榎本武揚討伐後に銚子沖で難破したときに療養していた吉野屋で、奉公していた淡路まん(天保14年12月27日生)と恋仲になり、そこで生まれた子が国木田独歩であること知る。また、父としていた専八には、国元に妻も子もおり、母にあたる淡路まんにも離縁した米穀商の雅治(次)郎という夫との間に子がいた。そのような出生の諸事情から独歩は戸籍上、淡路まんの元夫である雅治(次)郎の子となった。出生の記録、その他残された各種資料から判断するに、父が専八であるらしいとする説が強いのであるが、独歩の出生時には父の専八と母のまんが籍に入っていなかったこと色々な問題を独歩は抱えていた。実生活上は、同棲の父である専八と1874年に上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構え、実質的な父であった専八も1899年には国元の妻と正式に離婚している。彼は文学者の中でも有名な作家ではあるが、代表的な作品が世に出たのは晩年で1905年(明治38年)発表の『独歩集』、1906年(39年)の『運命』まで、それはそれは長かった。(柴咲らんど)

壺井 栄(つぼい さかえ、小説家、作家、女性、1899年8月5日-1967年6月23日)香川県出身。小豆島の坂手村(現在の小豆島町)出身。夫は詩人の壺井繁治。香川県小豆郡坂手村で醤油樽職人の岩井藤吉の5女として生まれた。学業は坂手小学校、内海高等小学校を卒業。卒業後、郵便局から役場に勤め、1925年、上京すると詩人の壺井繁治と28歳で結婚している。1938年、処女作『大根の葉』を発表すると、彼女の執筆活動は本格的になり開花する。第7回(1954年)『風』で女流文学賞を受賞、芸術選奨文部大臣賞、新潮文芸賞、児童文学賞などを多数の作品で次々と受賞する。特に1952年に発表され、映画化された『二十四の瞳』は高峰秀子主演、木下恵介監督で有名な作品となる。二十四の瞳(にじゅうしのひとみ)は、1928年から1946年の彼女が育った香川県小豆島を舞台に描かれた小説である。師範学校を卒業し、島の岬の分教場に赴任したばかりの若い女性教師と、そこに入学したばかりの小学生の児童12人(男子5人、女子7人)の児童のふれあいを当時の日本の社会、昭和戦前期の歴史の歩みを追いながら描いた作品である。分教場に赴任した若い大石先生はアキレス腱を切ってしまい分教場への通勤が不可能になり、本校に転任。1928年、分教場の子供たちが5年生になったことから本校に通う。そこで、大石先生と再び再会を果たす。ただ、子供たちの生活事情は変化していた。とりまく様々な状況が変化していく。そのような中、大石先生は彼らの卒業とともに結婚を理由に退職。再び、大石先生と子供たちが会ったのは、長い戦争が終わった1946年だった。大石先生は最愛の夫を戦争で亡くし未亡人となっていた。教壇に復帰していたことから子供たちが懐かしくなりみんなを呼び寄せる。そして、昔の教え子が集まるが、……。この作品は、敗戦直後の日本の長編児童文学を代表する作品といっても過言ではないとされている。発表当初は、戦争児童文学とまではいかないにしても、キリスト教雑誌『ニューエイジ』に1952年(昭和27年)2月ー11月に10回に渡り連載された。完結月の翌月に単行本化され、出版されると、なりもの入りで出版した作品ではなかったが人気をはくした。それは、彼女の作品は前作の『母のない子と子のない母と』『坂道』で文部大臣賞を受賞しており、それらの作品が評価が高く、『二十四の瞳』には、そんなに版元は期待していなかったが、それが発刊するや大ヒットで増刷に増刷をくりかえす作品となったのである。英訳本も出版される人気ぶりだった。他に彼女の代表作といえば『大根の葉』『柿の木のある家』『母のない子と子のない母』『坂道』などがある。(柴咲らんど)

 千葉 治平(ちば じへい、作家、1921年(大正10年)10月31日-1991年(平成3年)6月23日秋田県出身。本名は堀川治平という。賞の受賞は、1946年(昭和21年)、『蕨根を掘る人々』月刊さきがけ一千円懸賞小説。1953年(昭和28年)、『馬市果てて』で第1回地上文学賞を受賞している。デビュー作は1946年(昭和21年)発表『蕨根を掘る人々』である。1966年(昭和41年)3月、文藝春秋刊『虜愁記』作品で第54回直木賞を受賞。(柴咲らんど)

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2007年6月22日 (金)

今日は何の日文学者たち

ウラジミール ペーター ケッペン (Wladimir Peter Köppen、自然科学者、気象学者、気候学者、植物学者、男性、ドイツ人、1846年9月25日-1940年7月22日) ロシア、サンクトペテルブルク生まれ。彼はヴラディーミル・ペーター・ケッペンとも言われている。彼はドイツ人の両親の間にロシアで生まれた。ロシアの学校に通っていたとき、自然科学、植物、気候に対する好奇心が目覚めた。ドイツでは、ハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学で学び、1870年に書き上げた卒業論文は気候や気象に関するものであった。学校を卒業すると、1872年から興味のあったロシア気象局(Deutschen Seewarte)海上気象部(Seewetterdienstes)の担当責任者として1年間仕事についている。その後、1975年にドイツに帰国し、4年間、ドイツ北西部に接する海上における天気予報を担当している。その後、気候、気象に関する本格的な基礎研究にのめりこんでいく中で、退職を決意。彼は気球を大空に放ち、大気変化を測量したり、気象学および気候学を体系づける研究に没頭した。その研究の成果が、1884年に発表された。それは、季節ごとの温度分布を測定点ごとに示した単純なもので、彼の最初の気候区分地図になった。その後、1918年に発表された気候区分システムではAからEまでの気候区分が定められた今日我々が知る気候区分とほぼ同じ区分形式を持った気候区分を発表している。その研究は、1936年の最終版の発表まで行なわれた。晩年になると、彼はパートナーと組み。ドイツ人気候学者ルドルフ・ガイガーと『Handbuch der Klimatologie』(気候学ハンドブック) を出版する。彼は3巻まで執筆したが完結をみることなく、この世を去り、完結を見たのは1940年に第5巻がガイガーの手によりケッペンの気候区分システムの改良が行なわれてからだった。ケッペンが有名になった学問は、最終的に1923年に考案した気候区分である。彼は、1879年に公表されていた年平均気温からくる気候区分を発表していたズーパン理論ではない、気候と植生について研究したことが評価された。言い換えれば、彼の気候区分は植生分布に気温分布と降水量分布の変数から割り出したものであった。それらは、単純な計算で割り出すことが可能であったことから現在まで改良に改良を加えながら生き続けているといえる。ただ、気候は人間の生活環境の変化などと密接に係わり合い、それらからくる自然環境変化が植生に変化を与え、気候に大きな変化をもたらすことになる。そのような地球環境変化から、今後はますます気候分類法が活用されていくといわれている。(柴咲らんど)

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2007年6月21日 (木)

今日は何の日文学者たち

岡田 誠三(おかだ せいぞう、小説家、男性、日本人、1913年3月8日-1994年6月21日)大阪市出身。直木賞作家。彼は大阪府大阪市に生まれ、大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)を卒業すると、大阪外国語学校(現大阪外国語大学)に入学、そして英語科を卒業。卒業後、朝日新聞社に入社し、記者として南方戦線に従軍。その経験を生かし、短編小説『ニューギニア山岳戦』が書かれ、1944年上半期の第19回直木賞を受賞する。その後も朝日新聞学芸部記者として映画の評論などを手掛けながら記事を書き続けた。朝日新聞を定年で退職した後は本格的な執筆活動に入った。サラリーマンの老後を描いた小説『定年後』などベストセラーも生み出している。処女作は1943年(昭和18年)9月の小説『ニューギニヤ血戦記』(朝日新聞社刊)である。第19回直木賞については選考委員が、井伏鱒二(所用欠席)、大佛次郎、獅子文六、中野実、濱本浩、吉川英治(所用欠席)で行なわれ、直木賞候補に彼意外に、瀧川駿の『小堀遠州』(1944年(昭和19年)3月/佃書房刊『小堀遠州』より)や、山手樹一郎の『檻送記』1944年(昭和19年)4・5月号の『大衆文藝』より)などがあがった。結果、1944年(昭和19年)8月9日に決定。8月15日に発表。1944年(昭和19年)の『文藝春秋』9月号に選評掲載の運びとなる。彼の『ニューギニア山岳戦』(1944年(19年)『新青年』3月号掲載が選ばれた選評には、戦争を色々な角度から独自の視点で描いているとの評価が掲載されていた。(柴咲らんど)

八匠 衆一(はっしょう しゅういち、作家、男性、日本人、1917年3月30日-2004年6月21日)北海道旭川市出身。日本大学芸術科卒業。本名は松尾一光(まつお・かずみつ)という。1981年(昭和56年)『生命盡(つ)きる日』で1989年の第17回より講談社主催となり1997年第25回をもって終了した『平林たい子文学賞(ひらばやしたいこぶんがくしょう)』の第10回平林たい子賞を受賞する。この賞は平林たい子の遺志に基づき、「文学に生涯を捧げながら、あまり報われることのなかった人に」をテーマに贈られる賞であり、渡辺久二郎が設立した賞であるが、彼にとっても喜ばしいしょうである。ここで平林たい子(ひらばやし たいこ)が出てきたので、少し書いておきます。平林たい子は、本名を平林タイという。長野県は諏訪市に生まれ、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)を卒業するのだが、幼き頃から作家になる決意をしていたといわれ、上諏訪町立諏訪高等女学校にも首席で入学している。その後、社会主義的な思想に興味を持ち始め、上京すると、アナーキスト山本虎三と行動をともにし、同棲。アナーキスト山本虎三の姉を頼って朝鮮に1ヶ月間渡るなどの動きをはじめる。のち検挙され、東京ところばらいを条件に釈放されている。結局、日本を離れ、満州で暮らす中で大連の病院で子供を出産。だが、その子も24日という命で、この世を去る。その貴重な体験を社会共産主義的な立場に立った個人主義的な考え方ではない角度から描き出した作品『施療室にて』が彼女を世にプロレタリア作家といわしめたものである。また、脇道にそれてしまった。(柴咲らんど)

広岡 敬一(ひろおか けいいち、作家、男性、1921年6月24日-2004年6月21日没、82歳)、彼は旧満州の長春市で生まれたとされている。そのため、1942年(昭和17年)、満州映画協会から、日本映画技術者養成所に留学の名目で上京し、同年11月に学徒動員令にとり召集され、陸軍航空隊に編入。中国各地の後方部隊を転々とする。のちに北京の特攻要員訓練部隊、第五錬成飛行隊に配属され、写真班員となり、特攻要員の訓練などの写真撮影にあたる。終戦後も現地除隊希望で故郷中国は北京に残留。ただ、日本人引き揚げの中、中国での生活も苦しくなり、東京を目指し日本に帰国。その後、東京で赤線の女給、ストリッパー、トルコ嬢など風俗にかかわる仕事に首を突っ込む。この経験が彼の作風そのものである。彼は男女の性の世界を直接的なものだけでなく、ロマンティックに描く。時代時代で変りゆく性風俗をその時々のテーマに乗せて描く。彼の作品は、『戦後性風俗大系わが女神たち』、『性風俗写真館』 (トルコ・ソープ時代編)、『性風俗写真館〈2〉赤線・ストリップ時代編』 『トルコロジー』『ちろりん村顛末記』『トルコロジストのせんちめんたるじゃーにー』『泡の天使たち』『ストリップ慕情』『昭和色街美人帖私の赤線時代』『浅草行進曲』『ストリップ慕情浅草・吉原ロマネスク』『トルコロジートルコ風呂専門記者の報告』『泡の天使たち』『現代性風俗史トルコ風呂記者全力疾走』など他にも多数ある。(柴咲らんど)

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2007年6月20日 (水)

今日は何の日文学者たち

  ラリー コリンズLarry Collins、作家、男性、アメリカ人、1929年9月14日-2005年6月20日)ハードフォード出身。フランスにて脳溢血で亡くなる。彼は1951年にエール大学、1953年から1955年まで軍隊、1956年にUPI通信社(パリ)、1957年にUPI通信社(中東事務局長)、1959年にNYC・ニューズウィーク(Newsweek)の中東編集者、1961年から1964年にパリのニューズウィーク(Newsweek)事務局長を務めるなど、作家として異色の経験を積んでいる。彼の作品はコリンズ・ラリー(Collins,Larry)&ラピエール・ドミニク(LapierreDominique:1931年7月30日、フランス生まれ。1981年、インドの子供のための人道支援団体を立ち上げ、スラム街におけるハンセン病患者の救済など執筆を通して、慈善家としての活動も旺盛である。パリ・マッチ誌の特派員としてヨーロッパ、アメリカ、アジアを渡り歩き、現在は夫婦揃ってフランスに住んでいる。コイン・ラリー同様、優れたドキュメンタリー作品を多数世にだしている)として発表されているものが多い。1965年、『Is Paris Burning? (1965, nonfiction, with Dominique Lapierre)、1967年、『Or I'll Dress You in Mourning(1967, nonfiction, with Dominique Lapierre)、1872年、『O Jerusalem!(1972, nonfiction, with Dominique Lapierre)、1975年、『Freedom at Midnight(1975, nonfiction, with Dominique Lapierre)、1980年、『The Fifth Horseman(1980, novel, with Dominique Lapierre)、1982年、『Mountbatten and the Partition of India(1982, nonfiction, with Dominique Lapierre)Fall From Grace (1985, novel)、1989年、『Maze: A Novel(1989, novel)、2004年、『Black Eagles (1995)、2004年、『Is New York Burning?(2004, novel, with Dominique Lapierre)、など他にも多数ある。日本語訳本は、志摩隆翻訳(1931年生まれ。1958年、東北大学文学部を卒業。英米文学を得意とする翻訳家である)の『パリは燃えているか?』(ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著:1944年7月、ヒトラー暗殺が企てられる中、敗色が濃くなったドイツ軍は第二次世界大戦末期になると内部分裂を始める。そして、ついにヒットラーは追い詰められフランスはパリの破壊命令を……。ナチスの占領下にあったパリの街に爆薬が仕込まれ、今まさに街が吹っ飛ぶ状況にあった。エッフェル塔、凱旋門、ノートルダム寺院、ルーヴル美術館、ありとあらゆるフランスが誇る歴史的建造物が今、消滅しようとする。その危機からパリは逃れ、敵の手に渡るなら廃墟にするといったヒトラーの陰謀は砕け散る。その第二次世界大戦における劇的パリ解放の真実をドキュメントとして描いた有名な作品である)、他の作品は志摩隆翻訳の『さもなくば喪服を』(ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ)、鈴木主税翻訳の『パリをとり返せ』(ラリーコリンズ)、村松剛翻訳の『おおエルサレム』(ラピエ-ル コリン、ラリー コリンズ)、渡会和子翻訳の『ブラック・イーグル』(ラリーコリンズ)、田中昌太郎翻訳の『怒りの核ミサイル』(ラリー コリンズ)、三輪秀彦翻訳の『第五の騎手』(ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ)、杉辺利翻訳の『今夜、自由を』(ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ)、などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月19日 (火)

今日は何の日文学者たち

サー・ジェームス・マシュー・バリーSir James Matthew BarrieJ.M.Barrie)、児童文学作家、劇作家、童話作家、ファンタジー作家、男性、イギリス人、1860年5月9日-1937年6月19日)スコットランド・キリミュア出身。彼の父は手織り機の織工で彼には3人の兄弟と7人の姉妹がいた。彼はそれらの10人の中で第9子の子供に生まれた。彼が6才のとき、彼の兄弟であったデイヴィッドが14歳の誕生日の晩にスケートで滑る事故で亡くなった。母はデイヴィッドを特に寵愛していたので、母の気持ちは落ち込み、彼はなぜか母から構ってもらえなくなった。それどころか、無視されるような待遇においやられ、そんな状況の中で若い彼は次第に部屋に閉じこもるようになる。そのような幼年期の彼の体験が有名な『ピーターパン』という物語を彼に書かせたようである。ピーターパン (Peter Pan)は戯曲『ケンシントン公園のピーター・パン』、小説『ピーター・パンとウェンディ』などの主人公の少年の名である。ピーター・パンはイギリス・ロンドンのケンジントン公園にさしかかったとき、乳母車から落っこち、迷子になってしまう。それから異次元の世界に入り込み、海賊フック船長やインディアンのタイガーリリーなどと対面する。ネヴァー・ランドに住み、妖精ティンカーベルと共に日々冒険の旅にでる。そして、次々と問題が起る。といった物語である。ネバーランドにはピーターと同じように親とはぐれた子供たちがいて、ピーターをたよりに、ピーターをリーダーとして、一致団結してことにあたる。衣装は木の葉で作ったものを纏い、清純無垢な純粋な少年の一面と善悪のけじめのない無鉄砲さを兼ね備えたキャラクターはアメリカの心理学者ダン・カイリー博士に『ピーターパン症候群』(Peter Pan Syndrome)という精神疾患としての概念を発表されるまでになる。ピーターパン症候群の心理学的な特徴としてあげられるものは、『言動が子供っぽい』、『精神的、社会的、性的な面で問題をはらんでいる』、『人間的に未熟でナルシズムに走る傾向がある』、『無責任で責任感が乏しい』、『反抗的である』、『怒りやすい』、『依存的で依頼心が高い』、『ずるがしこい』、『価値観が世間一般のものと異なり、法的根拠を無視したがる』などである。また、年齢的には大人の男性でありながら『少年』の一面を持ち、母親に接し、甘えている時や甘えたいと欲している時には母性の必要性を極度に演じる傾向がある。パーターパン症候群とは、そんなものである。そこで、あなたは身近な男女社会における幼稚性や精神的パパ・ママ・コンプレックスなどといった問題について、どのように考えますか? これ、おかしくないと思ったあなたは……、問題ありです。長くなったので、迷子になりっぱなしの状態で終わります。(柴咲らんど)

宗 左近(そう さこん、詩人、作詞家、仏文学者、翻訳家、美術評論家、男性、日本人、1919年5月1日-2006年6月19日没、87歳)福岡県出身。本名は古賀照一(こが てるいち)という。法政大学名誉教授、昭和女子大学教授を務めた。彼は福岡県遠賀郡戸畑(北九州市戸畑区)に生まれた。天籟寺小学校、戸畑小学校、宮崎第二小学校、宮崎中学(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)、小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)と転校を繰り返し、上京し、旧制一高を卒業。1942年、東京大学の哲学科に入学。1945年4月、召集され横須賀海兵隊に入隊。ただ、入隊いするも、精神錯乱を装い除隊したという説がある。除隊後、東京大学卒業すると都立女専に就職し、フランス語の担当となる。その後、法政大学社会学部教授(のちは名誉教授とある)となり、昭和女子大学の教授も勤めた。青春期にフランス象徴詩を好み、フランス文学に興味を持ち、散文詩などを書くよう似なった。1989年に思潮社より詩集『あしたもね』を発表。また、好奇心が旺盛で楽曲の作詞や民話や考古学にも興味があり、色々な学問に精通し造詣が深かった。彼のペンネームは特殊な由来があるといわれている。時は東京大空襲に戻るが、母親と戦時下を彷徨う中、母の手を離した。その時、母親が眼前で亡くなった。あまりにも酷い話である。彼は、そのことがあってからというもの自分自身を責め、罪の意識に駆られたようである。そんな嫌な戦争体験を持ち、戦後の時代を強く生き抜くために、己を力づけるために、勇気を奮い立たす為に、「そうさ、こんちくしょう!」という言葉を自分のペンネームにしたとの説がある。彼の功績については、西欧人による代表的な日本論である20世紀を代表する『表徴の帝国』(ロラン・バルト著)の翻訳者として有名。1968年、詩集『炎(も)える母』(1967年発表)に第6回歴程賞の受賞。1994年、詩集『藤の花』で第10回詩歌文学館賞受賞。2004年、第1回チカダ賞受賞。千葉県市川市名誉市民となるなどがある。作品については、詩集は、『黒眼鏡』『炎える母』『宗左近詩集』『続・宗左近詩集』『透明の芯の芯』『夜の虹』『縄文』『いつも未来である始原』『河童』『こころ』『愛』『幻花』『虹』『魔法瓶』『鑑賞百人一首』『鏡』『お化け』がある。他の作品は、『詩のささげるもの』『私の死生観』『あなたにあいたくて生まれてきた詩』『芸術の条件』『反時代的芸術論』『ドキュメント・わが母 絆』『錨と表徴-フランス文学管見』『芸術家まんだら』『表徴の帝国』 (ロラン・バルト著)、『幸福論』(アラン著)などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月18日 (月)

今日は何の日文学者たち

マクシム ゴーリキー(Максим Горький,作家、小説家、自伝作者、随筆家、男性、ロシア人、1868年3月28日(当時のユリウス暦3月16日)-1936年6月18日)本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексей Максимович Пешков)という。彼は、家具職人の子として生まれたが彼が9-10歳のとき、母ワルワラが肺結核で亡くなり、孤児となっている。その後、祖母に引き取られ育てられる。最愛の祖母も亡くなり、1887年に彼は自殺未遂事件を起したのち、ロシア各地を転々と移り住みながら職につき、地方新聞の新聞記者になる。そこで彼の転機が始まる。1892年、ペンネームを始めてゴーリキーとした短編『マカル・チュドラ』が『カフカス』紙にレビュー作として掲載され、1895年、大衆雑誌『ロシアの富』に『チェルカシュ』を発表する。1898年に短編集『記録と物語』を発表するとロシア文壇に一躍名をはせる。翌年、1899年に散文詩『26と1』を発表。また、長編小説のレビュー作となる物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表する。そして、彼の代表作、1902年の『どん底』が発表される。『どん底』は、翌年1903年にベルリンで戯曲が上演される。他の作品は、『母』(1907年)、『告白』(1908年)、『幼年時代』(1914年)、『人々の中で』(1916年)などがある。彼の作風は、彼独自のソビエト文献主義による社会主義的写実主義原則に則って形成されているといえる。そのようなことから戯曲などでは性格描写のプロットを強調した表現法が多く見られる。また、彼はソビエトの体制や思考についても、土地にかかわる小作人に対する追立て、ロシアの労働組合員の迫害、ユダヤ人のコミュニティにかかる悪い教育標準、ロシア体制下の海外投資の成長性などを追求し批判している。それらは、彼の幼年期の劣悪な生活環境から来ているといわれている。5歳のときに、指し物師だった父を亡くし、9-10歳で母を失くし、幼くして厳しい境遇のもとで、染料工場主の母方の祖父に育てられ、11歳で事実上の独立を余儀なくされているからである。そして、商店の手伝い、汽船での皿洗い、イコン作りの弟子など、転々と様々な職業にかかわりながら、ロシアの下層社会、底辺の生活を身をもって体験する。そのようなことから、平等や正義に対する強い思いは彼の作品や行動に表れ、活動はもとより、彼の稼いだ報酬についても大部分を寄付したと伝えられている。(柴咲らんど)

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2007年6月17日 (日)

今日は何の日文学者たち

松下 竜一(まつした りゅういち、ノンフィクション作家、歌人、小説家、作家、男性、日本人、1937年(昭和12年)2月15日-2004年(平成16年)6月17日没、享年68歳)大分県中津市出身。彼は大分県立中津北高等学校を卒業し、のち1970年(昭和40年)に廃業することとなる家業の豆腐屋を継ぐ。ノンフィクション作家としての文筆に忙しいのもあったようだが、当時、公害運動に興味をもち、人と環境についてのかかわりを深く考えた作家に専念するために家業を休止したようでもある。その後、1973年(昭和48年)に『豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会』を結成し、代表者としての活動と機関誌『草の根通信』の創刊などに忙しく動いている。作家としての功績は、1982年(昭和57年)に『ルイズ、父に貰いし名は』で講談社ノンフィクション賞を受賞している。代表作は『豆腐屋の四季』である。この豆腐屋の四季(とうふやのしき) は、1969717日から197018日まで東京放送系列(朝日放送製作)で木曜日21:30-22:15にテレビドラマとして放送されたことで有名である。全26回にわたり、豆腐屋という仕事に向かう男の誇りと情熱を描き、豆腐を愛する男の生きざまは視聴者に受けた。原作は、思いがけない母の死により進学を断念した若い男が、大分県中津市で零細な家業の豆腐屋を継ぐ。厳しい労働・作業に従事しながら病弱な身体を酷使する労働の日々が男を襲う。そして、どうしても文学への熱い思いを忘れられぬ胸の奥に秘めた思いが……。昭和60年代を生きるおおいなる青春の記録である。テレビドラマの制作スタッフは、プロデューサーが山内久司、脚本が楠田芳子、出演者は緒形拳・川口晶・淡島千景・藤原釜足・中原早苗・林隆三・市川寿美礼・紀比呂子らがあたった。主題歌は『生きて愛して~豆腐屋の四季』(作詞:喜多内十三造、作曲:木下忠司)である。彼の作品を紹介するが、これらからも彼が社会派の作家であったことを知ることが出来る。出版レベルの本は、『底ぬけビンボー暮らし』『豆腐屋の四季ある青春の記録』『ルイズ父に貰いし名は』『狼煙を見よ戦後ニッポンを読む』『怒りていう』『逃亡には非ず日本赤軍コマンド泉水博の流転』『小さな手の哀しみ』『憶ひ続けむ戦地に果てし子らよ』『潮風の町』『狼煙(のろし)を見よ東アジア反日武装戦線部隊』『どろんこサブウ谷津干潟を守る戦い』『砦に拠る』『風成の女たちある漁村の闘い』『檜の山のうたびと歌人伊藤保の世界』『松下竜一 その仕事』など、他、多数ある。(柴咲らんど)

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2007年6月16日 (土)

今日は何の日文学者たち

 石沢 英太郎(いしざわ えいたろう、作家、1916年5月17日-1988年6月16日)SF作家の野阿梓の父親。出身地を含むm経歴等について、未確認域の事項があることから経歴はひかえました。ただ、偉大な人物であることから作品等の紹介と、功績についは紹介します。1966年、『羊歯行』で第1回双葉推理賞を受賞し、文壇にデビュー。1976年、短編『視線』で第30回日本推理作家協会賞を受賞。主な作品は、『噂を集め過ぎた男』(サラリーマンの忘年会の席で人事課長が殺される……)、『ヒッチコック殺人事件』(断崖から墜落死した教授。自殺? 他殺?)、『橋は死の匂い』(天草五橋完工直前に海へ飛込み自殺した人物があいた。それは橋梁建設技師だったが……)、『視線』(日本推理作家協会賞受賞作)、『少数派』『死の輪舞(ロンド)』『犯罪調書』『謀鬼』『牟田刑事官事件簿』『退職刑事官』『九州殺人行』『南海幻想』『狙われた部屋』『九州推理紀行』「推理作家の裏側の裏」『刑事官殺人ファイル』『さらば大連』『映画主題歌殺人事件』『秘画写楽の謎』『秘画殺人事件』『211人の視点』などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月15日 (金)

今日は何の日文学者たち

 竹山 道雄(たけやま みちお、小説家、評論家、ドイツ文学者、男性、日本人、1903年(明治36年)7月17日-1984年(昭和59年)6月15日)大阪出身。彼は大阪で生まれ、銀行に勤める父親の関係から静岡県浜松、朝鮮の京城(現在のソウル)で1907年から1913年まで過ごすなど、各地を点々としている。彼は東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)から第一高等学校へ進学し、1923年、当時20歳、東京帝国大学文学部の独文科に入学し、1926年、23歳で大学を卒業している。その後、第一高等学校(現在の東大教養学部)の講師となり、翌年に講師のまま文部省留学生として、ヨーロッパへ留学。ドイツ・ベルリン、フランス・パリで3年を過ごし、1930年(昭和5年)に日本に帰国。そのまま、一高の教授となる。戦後、第一高等学校が東京大学教養学部に改組されるが教授の職をそのまま続ける。1951年に退官する。のち、上智大学などの講師を歴任。1935年(昭和10年)、新潮社の「日本小国民文庫」の編集と執筆に参加し、1939年(昭和14年)にはシュヴァイツァーの自叙伝「我が生活と思想より」を翻訳する。1942年(昭和17年)、新潮社より『光と愛の天使』『シュバイツァー伝)を刊行した。1947年(昭和22年)に『本格小説の生まれぬ訳』を発表。1947年(昭和22年)3月、「赤とんぼ」(児童雑誌)、『ビルマの竪琴』(第一部)連載小説が始まり、翌年3月まで連載された。その後も連載が、9月から第2部、第3部と続いた。そして、1948年2月に『ビルマの竪琴』は完結する。彼はそれらを書き上げたときには、学制改革によって東京大学教養学部の教授の職についていた。ちなみに、『ビルマの竪琴』は芸術選奨文部大臣賞を受章している。1951年(昭和26年)、当時48歳、東京大学教養学部の教授を退職。その後、学習院大学、上智大学などの講師となる。彼は批評や評論を多く残している。『ヨーロッパの旅』『剣と十字架』『失われた青春』『京都の一級品』などである。しかし、有名なものは教壇に立ち、若い教え子を戦場に送り出した思いからなのか、1947年に発表した小説『ビルマの竪琴』(日本軍のビルマ(現在のミャンマー)に侵攻していた隊の中で音楽が好きで、それにより規律や統率をはかっていた部隊があった。中でも若い水島という上等兵の楽器演奏がある部隊では人気があった。そんな中で水島上等兵が戦闘中に隊長の命令で出かけることになり、それ以降、行方不明になる。待っている間にも、日本軍は劣勢になり、部隊は全員捕虜となる。そして、りムドンの捕虜収容所に送られる。隊員は、もう会うことのないものと思いながらも水島上等兵を案じていた。すると、隊員たちの前にある日、青いオウムを肩に乗せたビルマの青年仏教僧が現れる。その人物が水島上等兵に似ていた。その僧を呼び止めようと隊の皆は声をかける。しかし、僧は一言も返さず逃げるように去っていった。それは、……)であろう。映画にも何度となくなった有名な作品である。ただ、現地の宗教的なバックボーンを考えるに、矛盾が大きく、私は作品としての完成度となると少し抵抗がある。他、彼は翻訳本があり、トマス・マンの『マリオと魔術師他一』、イプセンの『民衆の敵』、ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』『善悪の彼岸』、ヨハンナ・シュピリの『アルプスの少女ハイジ』、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ-テ(Johann Wolfgang Von Goeteの『ゲーテ詩集』『若きウェルテルの悩み』、シュヴァイツァー・アルベルト(SchweitzerAlbert)の『わが生活と思想より』(原書名:AUS MEINEM LEBEN UND DENKEN)など多数、出版している。(柴咲らんど)

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2007年6月14日 (木)

今日は何の日文学者たち

ギルバート・ケイス・チェスタートンGilbert Keith Chesterton、推理小説作家、批評家、評論家、小説家、作家、男性、イギリス人、1874年5月29日-1936年6月14日)カタカナ読みでチェスタトンと呼ばれることもある。彼はロンドン・ケンジントンにあった土地建物業を営む家に生まれ、1887年、セントポール校に入学。画家に憧れ1891年スレイド美術学校(ロンドン大学付属)に入学。そののち、絵画に壁を感じ、文学を志すようになる。彼は評論に関する書物も多くあるがここでは小説を紹介する。1904年 『新ナポレオン奇譚』(The Napoleon of Notting Hill)、1905年 『木曜の男』(The Man Who Was Thursday)、1912年 『マンアライヴ』(Manalive)、1905年 『奇商クラブ』(The Club of Queer Trades)、1911年 『ブラウン神父の童心』(The Innocence of Father Brown)、1914年 『ブラウン神父の知恵』(The Wisdom of Father Brown)、1922年『 The Man Who Knew Too Much』 、1926年 『ブラウン神父の不信』(The Incredulity of Father Brown)、1927年『ブラウン神父の秘密』(The Secret of Father Brown)、1929年『詩人と狂人たち』(The Poet and The Lunatics)、1930年『4人の申し分なき重罪人』(Four Faultless Felons)、1935年『ブラウン神父の醜聞』(The Scandal of Father Brown)、1937年『ポンド氏の逆説』(The Paradoxes of Mr. Pond)などがある。(柴咲らんど) 

サルヴァトーレ クァジモドSalvatore Quasimodo、詩人、男性、イタリア人、1901年8月20日-1968年6月14日)カタカタ読みでサルバトーレ・クァジーモドと呼ばれることもある。彼は1959年にノーベル賞を受賞している。彼はイタリア・シュラクサ(Syracuse)の近くモディカ(Modica)でシチリア出身の鉄道の役人の息子として生まれた。学業については、財政問題のために彼は1923年に学校を去り、いくつかの仕事についている。1926年に彼は政府の土木工学の仕事にも携わったりもした。のち、彼が18才だったときに書いてあった詩などを集めたコレクション『Acque e terre, Edizioni di "Solaria", Firenze 1930を発表する。続いて、彼はOboe sommerso, Edizioni di "Circoli", Genova 1932Erato e Apòllìon, pref. di S.Solmi, Scheiwiller, Milano 1938Poesie, Edizioni "Primi Piani", Milano 1938Lirici Greci, pref. di L. Anceschi, Edizioni di Corrente, Milano 1940Ed è subito sera, Mondadori, Milano 1942Con il piede straniero sopra il cuore(Alle fronde dei salici), Edizioni di "Costume", Milano 1946Giorno dopo giorno, Mondadori, Milano 1947La vita non è sogno, Mondadori, Milano 1949Il falso e vero verde, Schwarz, Milano 1954Il fiore delle "Georgiche", Mondadori 1957La terra impareggiabile 1958Il poeta e il politico e altri saggi, Schwarz, Milano 1960などを発表していく。彼の最初の妻(Bice Donetti)は1948年に亡くなり、後妻として彼はダンサーのマリア(Maria Cumaniと結婚し、彼は『Dare e avere, Schwarz, Milano 1966』を最後に脳溢血でこの世を去った。(柴咲らんど)

八木 柊一郎 (やぎ しゅういちろう、劇作家、作家、男性、日本人、1928年12月20日-2004年6月14日神奈川県出身。文學座の公演「三人の盗賊」で新劇界にデビューする。のち、青年座、俳優座、文化座などで戯曲を上演し、劇作家として頭角を現し、評価を得た。彼の功績は岸田戯曲賞、芸術祭優秀賞、紀伊国屋演劇賞、芸術選奨文部大臣賞などの受賞歴からもわかる。大衆芸能である演劇部門の東宝、松竹の商業演劇や当時のミュージカルの作品も多くか書かれ、晩年はテレビドラマも書いた。ヒット作「男嫌い」などもその中のひとつである。新劇作品としては、公演が1968年4月の青年座『坂本龍馬についての一夜』(出演者:山岡久乃・森塚敏)、1978年4月の『コンソメスープ昭和風』、1987年11月の『国境のある家』、1991年4月の俳優座『カドリールゆらゆるスカーツ』(出演者:原口清人・岩崎加根子)、1991年12月の青年座『カルメン』、(出演者:高畑淳子・山路和弘)1993年4月の文学座『好色一代女』(出演者:寺田路恵・川辺久造)、1997年12月の俳優座劇場プロデュース『秋日狂乱』(出演者:内田稔・稲野和子)、1998年2月の俳優座『チェーホフの家』(出演者:立花一男・片山万由美)などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月13日 (水)

今日は何の日文学者たち

岩間 芳樹(いわま よしき、脚本家、1929年10月31日ー1999年6月13日静岡県出身。彼の出版レベルの作品は、さかなちゃん (1976)、あなたの食卓が変わる、医療はどこまですすむ、 北上山系 (1977)、わがドラマ紀行、わたしは海〈下〉 (1978)、流離の女 (1978)、、わたしは海〈上〉 (1978)、岩間芳樹ドラマ特選集、カードがあなたを管理する、若者はどう変わる、ザ・デイ〈9/新国際人時代、日本初の第9交響曲、望郷の星長谷川テルの青春 (1980)、一唱民楽 (1984)3B組貫八先生〈1 (1982)3B組貫八先生〈2 (1982)3B組貫八先生〈3 (1983)、一唱民楽 (1984)など他多数ある。植村直己原作の『植村直己物語』の映画化(製作・電通、毎日放送、配給・東宝:1986.06.073,855m 140分カラービスタビジョンサイズ)では脚本を担当。浅田次郎原作の『鉄道員』(ぽっぽや)の映画化(製作・「鉄道員」製作委員会、配給・東映:1999.06.05112分カラーワイド)では脚色を担当。この作品が第23回日本アカデミー賞の最優秀脚本賞を岩間芳樹は降旗康男とともに受賞。乙松と仙次の鉄道員としての歴史を通じて、原作を損なわないよう日本を背負ってきた個々の男たちの生き方と心を描き出した作品に仕上げた。だが、1999年6月逝去となったため、岩間芳樹の遺作となってしまった。他、テレビ関連の脚本作品といえば、1979年、『水中花』(原作:五木寛之、出演者:松坂慶子・近藤正臣・船越英二・友里千賀子)、1977年、『赤い月』(原作:松本清張、出演者:)、高野浩幸・村地弘美)、1974年、『まぼろしのペンフレンド』(原作:岩間芳樹、出演者:山賀裕二(明彦)・加藤小代子(めぐみ/本郷令子(2役))・池上季実子・若山弦蔵)、1974年、『おしどり右京捕物車』、1973年、『暁はただ銀色』などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月12日 (火)

今日は何の日文学者たち

 後藤 英一(ごとう えいいち、物理学者、情報工学者、1931年1月26日-2005年6月12日)東京都出身。1954年、パラメトロン(parametron)を当時東京大学大学院(理学部高橋秀俊研究室)の在籍中に発明。いわゆる、工学的にいうとパラメータ励振現象を利用した論理素子の発明である。そして、その後、研究を重ねパラメトロン計算機第1号となるPC-1を完成させ、1962年3月にパラメトロン計算機の研究に関して得た学業に対して理学博士の学位を取得している。日本が敗戦直後のコンピュータ技術水準などのコミニケーションエレクトロニクスについて、欧米より10年以上遅れていたといわれていた日本において、日本独自のコンピュータ素子を発明し、コンピュータの基本動作原理をみつめ新しい論理素子を誕生させた彼は、当時の情報工学にかかわる日本の技術者やメーカーに大きな勇気と影響を与えたのである。彼は1986年、そのパラメトロンの原理を駆使した超電導素子「磁束量子パラメトロン」を世に知らしめ、現在社会におけるコンピュータ開発に大きな貢献をした。(柴咲らんど)

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2007年6月11日 (月)

今日は何の日文学者たち

ジーン ウェブスターJean Webster, 小説家、女性、アメリカ人、1876年7月24日-1916年6月11日没、39歳)ニューヨーク州出身。本名はAlice Jane Chandler Webster。あしながおじさん、続あしながおじさんなどで知られるアメリカの小説家。マーク・トゥエインの姪。彼女は、フロリダはニューヨーク、出版社のチャールズ・L.ウェブスター(Charles L. Webster)の娘として生まれた。1897年、彼女は年齢21のとき、ヴァッサー大学(Vassar College)に入学し、在学中に文筆活動を開始。パッティ・シリーズ と呼ばれる作品群を書く。大学3年生のときに、彼女はイタリアに兄弟と結婚する予定のマッキニー(Ethelyn McKinneyと共に旅行し、親友となる。1901年に大学を卒業すると、彼女はニューヨーク市に移りすみます。そこでは、彼女が様々なニューヨーク雑誌のためのフリーランサー作家としての活躍の場がありました。そして、そこでは小説、多くの劇、およびいくつかの未発表の小説を書き上げます。それらの中には、大学を通って匿名の恩人によってささえられた孤児の話、『足ながおじさん』の有名になった作品もあった。彼女は孤児院や社会福祉団体などを訪問するなど、社会貢献運動に興味を持ち、刑務所改革のための委員会の委員なども勤め、定期的にシンシン刑務所(Sing Sing jail)などを訪問し、社会の改革に生涯を費やしていく。彼女を有名にした作品は、1901年『When Patty Went to College』(和題:パッティが大学へ行ったとき) 、1906年『Jerry』、1906年『Jerry Junior』、1907年『The Four Pools Mystery』、1911年『Just Patty』、1914年『Daddy-Long-Legs』(和題:台あしながおじさん)、1915年『Dear Enemy』(和題:続あしながおじさん)などがある。1915年、彼女はEthelynの兄弟、McKinney息子と親密関係になっていたが彼が結婚していたことから不倫関係が続いていたが、最終的に彼が離婚したのでこの年に結婚。翌年、1916年、彼女は出産がもとでこの世を去る。彼女の孤児院や刑務所などにおける人間の尊厳にかかる社会的な行動主義者としての人生がここで終わるのである。ただ、あまりにも39歳という年齢は私には若すぎるように思える。(柴咲らんど) 

長谷川 伸(はせがわ しん、劇作家、小説家、作家、男性、日本人、1884年(明治17年)3月15日-1963年(昭和38年)6月11日没、享年79歳)本名は伸二郎。神奈川県出身。ペンネームに、山野芋作、長谷川芋生、春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭 冷々亭主人などがある。神奈川県横浜市(日ノ出町)の土木業を営む家に生れるが、父の事業が思わしくなく倒産し、小学校を中退している。物心がついてから彼の家は貧しく、当時、小僧として船渠(第1号ドック:現在の日本丸メモリアルパーク)で働きながら、小説を書き続けたようである。そして、1911年(明治44年)、当時20歳、都新聞社(現東京新聞)の演芸欄を担当する新聞記者となる。主な作品は、夜もすがら検校、敵討鑓諸共、闇の巣、沓掛時次郎、関の弥太っぺ、日染月染、紅蝙蝠、瞼の母、戸波長八郎、一本刀土俵入、刺青奇偶、荒木又右衛門、八丈つむじ風、越後獅子祭、江戸幕末志、足尾九兵衛の懺悔、日本捕虜志、四斗谷平次、堀の小伝、三代目扇歌と女、横浜租界、灯篭堂の僧、日本敵討異相、印度洋の常陸丸、股旅新八景などである。心臓衰弱により東京聖路加病院で死去後3年ののち、1966年(昭和41年)に長谷川伸の功績を称えて『長谷川伸賞』が設立される。長谷川伸の文学碑は有志により、彼の幼き思い出の地である日本丸メモリアルパークの脇に建立されている。代表作は『沓掛時次郎』『瞼の母』『一本刀土俵入』『関の弥太っぺ』など多数ある。彼は庶民から圧倒的な支持を受け、大衆文学の巨匠とまでいわれ、日本人の持つ真理、義理人情を分析し、人とはどう生きるべきかを日本文化における大衆文芸における股旅物の小説、戯曲『瞼の母』『一本刀土俵入』などを通して、わかりやすくとき日本文化の発展に寄与した人物である。(柴咲らんど)

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2007年6月10日 (日)

今日は何の日文学者たち

宇野 千代(うの ちよ、小説家、女性、日本人、1897年(明治30年)11月28日-1996年(平成8年)6月10日没、享年98歳)山口県出身。彼女は玖珂郡(現岩国市川西)にて代々酒造業を営む旧家であった宇野俊次、トモの長女として生まれる。1899年(明治32年)、母が肺結核で他界。14歳になった彼女は生母の姉の子である藤村雄一に十日間嫁入りしている。1913年(大正2年)、父が病死。翌年、1914年(大正3年)3月、彼女17歳、岩国高等女学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、川下小学校で代用教員(月給8円)で教壇に立つ。ただ、教員(先生)と男女問題(恋愛事件:恋文事件)をおこし、1915年(大正4年:当時18歳)に故郷を追われるように、同校をを退職。一時的にソウルに渡り、翌年、日本に帰国すると従兄弟の藤村忠を頼って京都にいき、同人文芸誌『海鳥』などに小説や詩、他に短歌などを投稿掲載し、作品の発表を通じて文才が開花し始める。1917年(大正6年)、20歳になると上京し、編集の仕事、小売店の販売員、家庭教師、きものデザイナーなど様々な職種を転々とする。当時、彼女は小川未明の作風にひかれている。1919年(大正8年)8月、当時22歳の彼女は藤村忠と結婚。翌年、1920年(大正9年)に札幌に夫の藤村忠の北海道拓殖銀行就職で移転。1921年(大正10年)、当時24歳の彼女の処女作品となる『脂粉の顔』が時事新報の懸賞小説で一等に入選し、本格的な執筆活動に入る。賞金は当時200円の時代で、その時の2等が尾崎士郎、3等が八木東作、選外が横光利一であったという。1922年(大正11年:当時25歳)に120枚の原稿であった『墓を発く』の原稿料366円で故郷に帰郷し、尾崎士郎と会い意気投合し、恋愛から同棲へ、その年、『巷の雑音』(中央公論)も発表する。翌年、1923年(大正12年)5月、当時26歳の彼女は尾崎士郎と荏原郡馬込町に転居すると、『追憶の父』『人間の意企』『オ紺の上京』『薄墨色の憂愁』『脂粉の顔』などを次々と発表。翌年、1924年(大正13年)4月に藤村忠と協議離婚し、尾崎士郎と正式に結婚する。この年から号(ペンネーム)を藤村から宇野千代にかえていく。そして、この年、『幸福』 (我観)、『或る女の生活』 『夕飯』 『赤ん坊』 『街の灯』 (「中央公論」、『足を撫でた女』 (大阪毎日新聞) 『青い空」(新小説)『白い家と罪』(世紀)などを発表する。1923年(大正14年:当時28歳)、『三千代の嫁入り』 『ランプ明く』 『往来』(中央公論)、『笑う浪江』 (婦人公論) 『夜』 『骸骨と母』(新潮)、『晩唱』 (新小説)などを発表。1926年(昭和元年:当時29歳)、『家』(中央公論)、『白い木柵のある家」(婦人公論)などを発表。1928年(昭和3年:当時31歳)、『晩唱』(中央公論)、『冬日閑話』(時事新報)、『過去』(文芸春秋)、『老女マノン』(改造)、『湯ケ島雑記』(報知新聞)、『新しき生活への出発』(婦人公論)などを発表。1929年(昭和4年:当時32歳)、『稲妻』(中央公論)、『月夜の便り』(文芸春秋)、『失楽の歌』(改造)、『オ浪とその母』(新潮)、『新選宇野千代集』(改造社)、『日本女マスミ』(新潮)、『罌粟はなぜ赤い』(報知新聞:1929/12/211930/5/22)を発表。 東郷青児、情死未遂を起こし翌年、1930年(昭和5年)、当時33歳、尾崎士郎と離婚し、東郷青児と同棲を始め、『よい天気』(文芸春秋)、『愛すべき蔓草』(婦人公論)、『高原』(中央公論)などを発表。1931年(昭和6年:当時34歳)、『大人の絵本』(中央公論)、『同豪華本』(白水社)を発表。1932年(昭和7年:当時35歳)、『暖炉』(文学時代)、『明るい午後』(現代)、『雨・子供』(文学クオタリイ)、『私という女』(婦人公論)を発表。1933年(昭和8年:当時36歳)、『色ざんげ』(中央公論:9/1945/3)、『大人の絵本』(改造)、『夜』(文学界)を発表。1934年(昭和9年:当時37歳)、東郷青児青児と別れ、彼女は四谷区大番町に転居する。『雨一炬燵夜話』(中央公論)、『軽便』(文学界)、『オペラ座サクラ館』(改造社)、『赤い自転車』『文学的自叙伝』『大島の話』(新潮)などを発表。そして、彼女の代表作となる『色ざんげ』(中央公論社)を発表。他、『私と子供』『別れも愉氏』(改造)、『娼婦の手紙』(中央公論)を発表。1936年(昭和11年)6月、彼女が39歳のとき、スタイル社を創設し、ファッション雑誌『スタイル』を創刊開始。『人の男』『未練』(中央公論)を発表。 1937年(昭和12年)、『ひとの男』(改造)、『空漠の間』(中央公論)を発表。1938年(昭和13年:当時41歳)、スタイル社より、文芸誌として位置づけた『文體』を創刊。『その家』(改造)、『恋の手紙』(中央公論)、『月夜』(中央公論社)、『田舎日記』(文體)などを発表。1939年(昭和14年)4月、当時42歳、北原武夫と結婚し、小石川区林町に転居。『情愛』(大陸)、『書翰往復ー千代・達治』(文芸)を発表。1941年(昭和16年)より、太平洋戦争勃発し、北原武夫が徴用される。翌年、「スタイル」を改題し「女性生活」とする。また、瑠璃人形に興味を持ち、阿波まで人形師を訪ね、そのおもいが作品『人形師天狗屋久吉』となり、『おはん』という作品に繋がり、そのときに文体が確立されたとされている。1944年(昭和19年)1月、当時47歳、戦時統制のため彼女のスタイル社が解散。1946年(昭和21年)2月、前年、原爆投下による終戦により、「スタイル」が復刊される。『日記抄』(改造)を発表。1947年(昭和22年:当時55歳)、『わたしの青春物語』(酣灯社)、『おはん』の連載を開始し、1950年、中央区木挽町に転居。『お藩』(中央公論)に断続的に連載(1957年(昭和32年)5月に完結)を続ける。1950年(昭和25年)に港区青山南町に転居。翌年5月、アメリカ・シアトル博覧会にて宇野千代のデザインした着物ショーを開催。その年、6月に『おはん』を中央公論社から発刊。12月に第5回野間文芸賞を受賞。その年、『宇野千代着物読本』を発刊。きもの店も開店する。1958年(昭和33年)2月、当時61歳、第9回女流文学者賞を受賞。1959年(昭和34年)、彼女62歳、スタイル社が多額の負債を抱えて倒産。『自伝的恋愛論』(婦人公論)、『女の日記』(新潮)を発表。1960年(昭和35年:当時63歳)、『年齢』(産経新聞)、『その人の顔』(小説中央公論)、『行く』(群像)を発表。1963年(昭和38年)、『答える』『私の特技』(新潮)を発表。1964年(昭和39年:当時67歳、東京オリンピックの年)、北原武夫と離婚。この年に尾崎士郎亡くなる。『這う』(新潮)を発表。1965年、『刺す』『笑う』(新潮)を発表、翌年の1966年(昭和41年:当時69歳)、「株式会社宇野千代」を設立する。『落ちる』(新潮)、『刺す』(新潮社)に掲載。1967年、『この白粉入れ』(新潮)、『那須日記』(風景)、1969年に『風の音』『貞潔』(海)、『未練』(早稲田文学)、『水の音』(新潮)、『風の音』(中央公論社)、1970年に『天風先生座談』(二見書房)、『幸福』(新潮)、『貞潔・短篇小説集』『親しい仲・随筆集』(講談社)から発表。1971年(昭和46年)、彼女74歳、5月、第10回女流文学賞を受賞。『桜』(新潮)、『或る一人の女の話』(文学界)、『私の文学的回想記』(東京新聞)、『野火』(海)を発表。1972年(昭和47歳:当時75歳)、第28回芸術院賞を受賞。北原武夫亡くなる。『或る一人の女の話』(文芸春秋社)、『私の文学的回想記』(中央公論社)、『今見るとき』(文学界)を発表。1974年、『雨の音』(文芸春秋社) 、1975年、『往復書簡』『八重山の雪』(文学界~文芸春秋社)、『薄墨の桜』(新潮社)を発表。1976年、『ママの話』『水西書院の娘』(海~翌年、中央公論社)、『チェリーが死んだ』(文学界)、1977年(昭和52年)7月、彼女80歳、『或る日記』(すばる)、『青山二郎の話』(海)を発表。『宇野千代全集』全12巻を中央公論社から刊行開始。翌年1978年6月完結。1979年、『残っている話ー或る記録』(すばる、『それは木枯らしか』『家系の水』(文学界)、1980年(昭和54年:当時83歳)、『弱者のように』(新潮)、『悪徳もまた』(スバル)、『それは刃物が導いた』(新潮)を発表。1982年(昭和57年)2月、彼女85歳、『生きて行く私』を毎日新聞に翌年7月まで連載。10月、第30回菊地寛賞を受賞。『茎が水を吸うように』(新潮)を発表。1983年(昭和58年:当時86歳)、大河自伝『生きて行く私』を毎日新聞社より発刊。百万部を超すベストセラーとなる。『或る男の断面』(群像)を発表。1984年、『三浦環の片鱗』(群像)、『普段の話』(スバル)、『普段着の生きて行く私』(毎日新聞~翌年8月)を発表。東宝で『おはん』が映画化される。1986年(昭和61年)、89歳、『折り折の生きて行く私』(毎日新聞~平成2年12月)、『織田よの恋』『婦人公論・臨増号)、『一変に春風が吹いて来た』(新潮)を発表。1987年(昭和62年)、90歳、『私の昭和史とは』『父の想い』(中央公論)、『幸せな話』(中央公論社)を発表。1989年(昭和64年)、92歳、『早く時が過ぎるように』(別冊婦人公論)、『オ雪』『雲が流れていた』『中央公論・文芸特集号)、『一ぺんに春風が吹いて来た』(中央公論社)を発表。1990年(昭和64年)9月、93歳、岩国市名誉市民となる。『淡墨の桜』(海竜社)、『私のしあわせ人生』(毎日新聞社)を発表。1992年、95歳、『或る小石の話』(中央公論・文芸特集号)、1993年、96歳、『不思議な事があるものだ』(すばる)、『待つことの人生」(文学界)、『私の幸福論』(海竜社)を発表。1994年(平成6年)、97歳、『好きな人が出来たときが適齢期』(GQJAPAN)を発表。1995年(平成7年)、98歳、『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社)を発表。1996年(平成8年)、虎ノ門共済病院にて亡くなる。モボ・モガが闊歩した時代の、まさに寵児として、戦後文化の開花に自らが和服をデザインし、女性の社会進出の扉を開き、生涯、作家たること、女性たることを忘れず、晩年も前向きに、明るく謙虚に純粋に生きた女性であり、時代を通して女性に愛された人物である。日本の文壇に貢献した人物であることはいうまでもない。(柴咲らんど)

倉橋 由美子(くらはし ゆみこ、小説家、女性、日本人、1935年(昭和10年)10月10日-2005年6月10日没、享年69歳)高知県香美郡土佐山田町(現香美市)の歯科医の長女として生まれる。私立土佐高等学校を経て、日本女子衛生短期大学に入学。歯科衛生士国家試験に合格。その後、明治大学文学部に入学。卒業後は同大学大学院に進学。1960年、大学院在学中に小説『パルタイ』を発表。『パルタイ』は、『文学界』に転載され芥川賞の候補となる。同年、短編集『パルタイ』を上梓し、1961年、女流文学賞を受賞。1963年、田村俊子賞を受賞。1983年泉鏡花文学賞を受賞。1984年、『大人のための残酷童話』が大ヒットする。児童文学の翻訳者として、シェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』、サン・テグジュペリ『星の王子様』などの翻訳本も出している。遺作は『新訳 星の王子さま』となる。作品は『パルタイ』『婚約』『人間のない神』『暗い旅』『聖少女』『妖女のように』『蠍たち』『スミヤキストQの冒険』『暗い旅』『ヴァージニア』『わたしのなかのかれへ』『悪い夏』『人間のない神』『夢の浮橋』『反悲劇』『迷路の旅人』『アイオワ 静かなる日々』『迷宮』『夢のなかの街』『磁石のない旅』『城の中の城』『大人のための残酷童話』『倉橋由美子の怪奇掌編』『シュンポシオン』『最後から二番目の毒想』『アマノン国往還記』『ポポイ』『交歓』『夢の通ひ路』『幻想絵画館』『夢幻の宴』『毒薬としての文学 倉橋由美子エッセイ選』『あたりまえのこと』『よもつひらさか往還』『パルタイ・紅葉狩り 倉橋由美子短篇小説集』『老人のための残酷童話』『偏愛文学館』『大人のための怪奇掌篇』など多数ある。(柴咲らんど)

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2007年6月 9日 (土)

今日は何の日文学者たち

チャールズ ディケンズCharles John Huffam Dickens, 小説家、男性、イギリス人、1812年2月7日-1870年6月9日)英国ヴィクトリア朝を代表する小説家として有名。彼は金曜日に、第二子の長男としてイギリスの南海岸に位置するポーツマスで生まれた。 彼は9歳から学校にあがったが、1824年、彼の父親の事件がもとで学校教育を中断せざるをえなくなる。やむを得ず自活する道を選び、靴墨工場で働き始め、幼いながらに屈辱感を覚えたようである。そのような環境下、彼は独学する。1824年から1827年はウェリントン・ハウス・アカデミー・ロンドンや1827年にドーソン・スクール(Mr. Dawson's school)に入学し勉強する。1827年から1828年まで、法律事務所の事務員や速記書記などの事務的なデスクワークの仕事につき、そんな経験から、彼は一語一語のスピーチを書き留めることが安易にできようにまでなっていた。18歳になると、彼は大英博物館でシェークスピアやゴールドスミスのイギリスの歴史など多数の作品を読み、それらに刺激されてか、『True Sun(1830-32)、『Mirror of Parliament(1832-34)、『Morning Chronicle(1834-36)などを次々と執筆する。雑誌に掲載された彼の短編小説など、1833年12月、月刊誌に彼の作品が掲載されると『A Dinner at Poplar Walk』がデビュー作となる評価をえる。それは、ロンドンの日常生活を独自の描写力で描いたスケッチ的なシリーズものの第1作目の小説であり、彼が本格的な作家活動をする第一歩となる。ただ、そのような作家活動とは裏腹に男女関係はうまくいっていなかったようである。銀行家の娘であったマリア(Maria Beadnell)との関係は1833年に終り、1836年になって彼の友人であったジョージ(George Hogarth)の娘キャサリン(Catherine Hogart)と結婚する。夫婦間に10人の子供がいたという。しかし、1858年に離婚している。一説には1837年に17歳で彼の腕の中で死んだキャサリンの妹メアリーにキャサリン以上に彼は恋愛感情を持っていたとする説がある。それは、彼が生涯を通じてメアリーの指輪を身につけていたことや、彼女に続いて埋葬されたいと望んでいたということからであった。有名な作品は『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』などがある。出版本については、ノベル作品は、The Pickwick Papers (1836–1837)Oliver Twist (1837–1839)The Life and Adventures of Nicholas Nickleby (1838–1839)The Old Curiosity Shop (1840–1841)Barnaby Rudge (1841)A Christmas Carol (1843)Martin Chuzzlewit (1843–1844)The Chimes (1844)The Cricket on the Hearth (1845)The Battle of Life (1846)Dombey and Son (1846–1848)The Haunted Man (1848)David Copperfield (1849–1850)Bleak House (1852–1853)Hard Times (1854)Little Dorrit (1855–1857)A Tale of Two Cities (1859)Great Expectations (1860–1861)Our Mutual Friend (1864–1865)The Mystery of Edwin Drood (unfinished) (1870)があり、短編小説ではThe Pickwick Papers (1836–1837)Oliver Twist (1837–1839)The Life and Adventures of Nicholas Nickleby (1838–1839)The Old Curiosity Shop (1840–1841)Barnaby Rudge (1841)A Christmas Carol (1843)Martin Chuzzlewit (1843–1844)The Chimes (1844)The Cricket on the Hearth (1845)The Battle of Life (1846)Dombey and Son (1846–1848)The Haunted Man (1848)David Copperfield (1849–1850)Bleak House (1852–1853)Hard Times (1854)Little Dorrit (1855–1857)A Tale of Two Cities (1859)Great Expectations (1860–1861)Our Mutual Friend (1864–1865)The Mystery of Edwin Drood (unfinished) (1870)がある。また、他の作品ではSketches by Boz (1836)Master Humphrey's Clock (1840–1841)American Notes (1842)Pictures from Italy (1844–1845)The Life of Our Lord (1846, published in 1934)A Child's History of England (1851–1853)The Uncommercial Traveller (1860–1869)In Memoriam W. M. Thackeray the first! A Coal Miner's Evidenceなどがある。(柴咲らんど)

有島 武郎(ありしま たけお、小説家、男性、日本人、1878年(明治11年)3月4日-1923年(大正12年)6月9日)東京都出身。学習院を卒業。農学者を志して札幌農学校に進学しキリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中し亡くなる。代表作品に、『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。彼は東京小石川〈現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれた。横浜に住居が移り、4歳から横浜英和学校(現横浜英和女学院)に通うことになる。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになるのである。10歳になると学習院予備科に入学する。19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、札幌農学校に入学し、内村鑑三や森本厚吉の影響などを受けながら1901年にキリスト教に入信している。農業学校を卒業すると軍隊生活を送り、その後、渡米している。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学んでいる。社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受け、ヨーロッパにも渡り1907年に日本に帰国している。このころ彼は信仰への疑問を持ち始め、キリスト教から離れていく。帰国ののち、ふたたび予備見習士官や大学の英語講師として日々を過ごすのですが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加する。『かんかん虫』『お末の死』などを発表しながら、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍するようになる。1916年に妻と父を亡くし、本格的な作家活動に入っていく。そして、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』などを執筆し、1919年に『或る女』を発表する。ただ、『星座』を執筆中に限界を感じたもか、筆を絶っている。その後、1922年、『宣言一つ』を発表。北海道狩太村の有島農場を開放する。1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱くが、秋子の夫に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになるようである。そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げてしまう。発見は7月7日で梅雨の時期であったことから1ヶ月以上遺体が発見されなかったこともあり、2人の遺体は相当に腐乱が進んでいたという。遺書には、『愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた』と残されていたという。彼の作品は、『かんかん虫』『或る女のグリンプス』『カインの末裔』『或る女』『生れ出づる悩み』『凱旋』『骨』『酒狂』『文化の末路』『運命の訴へ』『星座』、評論部門では『惜みなく愛は奪ふ』『宣言一つ』『二つの道』、童話部門は『一房の葡萄』『溺れかけた兄弟』などがある。(柴咲らんど)

川口 松太郎(かわぐち まつたろう、劇作家、小説家、作家、男性、日本人、1899年10月1日-1985年6月9日没、享年85歳)東京浅草出身。戦後の大映映画の専務を勤めた人物。今戸小学校を卒業。後妻は女優の三益愛子で俳優の川口浩(長男)、川口恒(二男)、川口厚(三男)、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)が子にいる。小説家として認められるまで職業を転々としたようで、様々な職業についている。洋服屋や警察署でのお手伝いなども、1915年の夏から約1年間などは栃木県芳賀町にあった祖母井郵便局で電信技士として勤務した経験などもある。当時は16歳で久保田万太郎に師事し、講談師の悟道軒円玉の家に住み込みながら口述筆記を通じて江戸の文化に触れるなど江戸の文芸にも興味を示している。小山内薫の門下として岡本綺堂番の編集に携わるなどの経験も積み、1934年(昭和9年)に発表した『鶴八鶴次郎』『明治一代女』『風流深川唄』などが認められ第1回直木賞を受賞する。直木賞受賞の頃から師と仰ぐ久保田万太郎らの影響で新派にかかわるようになり、受賞作2作を花柳章太郎主演で劇化をした。また、戦時代小説では原作を書いた『蛇姫様』など映画会社各社で何回も映画化された。そして、彼は戦後、当時社長であった永田雅一に請われ、大映の専務になる。その後も、活発に東京・銀座のホステスの生態を描いた『夜の蝶』(57年)を映画化。東映『獅子丸一平』『新吾十番勝負』などを書き上げ、演劇界、映画界、文壇の世界に大きな影響を与えていく。その後、1937年―1938年、代表作『愛染かつら』が大ヒット。1938年に映画化されると田中絹代、上原謙主演で人気を博した。彼の功績を称えるように1959年に毎日演劇賞受賞。1963年、第11回菊池寛賞を受賞した。1969年、『しぐれ茶屋おりく』で第3回吉川英治文学賞も受賞している。他、『明治一代女』『新篇丹下左膳』など、多数の作品群を発表し、日本文化の発展に寄与した。(柴咲らんど)

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2007年6月 8日 (金)

今日は何の日文学者たち

  ジョルジュ サンドGeorge Sand、作家、女性、フランス人、1804年7月1日-1876年6月8日)本名はオーロール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)で、デュドヴァン男爵夫人である。1831年、Jules Sandeau との合作で処女作『Rose et Blanche』を発表すると、のち号を「サンド」とするペンネームで執筆を始める。その後、発表の『アンディアナ』も話題にはなるが、それは社交界での彼女の振る舞いであった。1833年、詩人アルフレッド・ド・ミュッセと交際し、続いて、医師のパジェロ、音楽家のフランツ・リストと関係を持った。1838年、さらにフレデリック・ショパンとマジョルカ島へ、1847年までノアンで同棲している。その後、彼女は小説家のギュスターヴ・フロベール(Gustave Flaubertと文通するなど、いろいろと私生活面での彼女の話題には事欠かなかったようである。彼女はまた、文学評論や政治的な活動を活発に行った。そのような場面でよく用いられ、引用された言葉に「There is only one happiness in life, to love and be loved.」(愛し、かつ愛され、この世に1つの幸福がある)がある。彼女は自由奔放で社交界に男装で行ってみたり、女性でありながらパイプ喫煙者であったとする説がある。彼女の小説部門だけををピックアップすると、Indiana (1831)Rose Et Blanche (1831, with Jules Sandeau)Lelia (1833)Andrea (1833)Mattea (1833)Jacques (1833)Leone Leoni (1833)Simon (1835)Mauprat (1837)l'Oreo (1838)l'Uscoque (1838)Un Hiver A Majorque (1839)Pauline (1839)Gabriel-Gabrielle (1839)Horace (1840)Consuelo (1842)la Comtesse De Rudolstady (1843, a sequel to Consuelo)Jeanne (1844)Teverino (1845)Peche de M Antoine (1845)Le Meunier D'Angibault (1845)La Mare Au Diable (1846)Lucrezia Floriani (1846)Francois Le Champi (1847)Les maîtres Sonneurs (1853)Elle Et Lui (1859)Jean De La Roche (1859)L'Homme De Neige (1859)La ville Noire (1860)Marquis De Villemer (1860)Mademoiselle La Quintinie (1863)Laura, Voyage Dans Le Cristal (1864)Le Dernier Amour (1866, dedicated to Flaubert)などがある。(柴咲らんど)

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2007年6月 7日 (木)

今日は何の日文学者たち

ヘンリー ミラー(Henry Valentine Miller、画家、作家、男性、アメリカ人、1891年12月26日-1980年6月7日)彼はドイツ系アメリカ人労働者階級の洋服の仕立てをしていた親の長男として、アメリカ・ニューヨーク州のヨークビルに生まれた。彼の妹・ロレッタ・アンナ(Lauretta Anna)が精神的なハンディを負っていたことから、妹をからかう子供たちから幼い頃、身をていして守るといった優しい子供だったようである。少し大きくなり、学校に上がってからも生徒としては品行は良かったが、女性関係は別のようで、17歳のときに初めて売春宿に出かけ淋病にかかったといわれている。学業はニューヨーク市立大学に進むのですが、2ヶ月で中途退学しています。彼はまた、南西アメリカおよびアラスカの至る所を旅行しています。1917年、彼はアマチュアではありますがピアニストだったビアトリス・シルヴァ・ウィッキンス(Beatrice Sylvas Wickens)と結婚。1919年、娘が誕生。ただ、彼は義理の母とも恋愛関係を持ち、短い期間ですが不倫に走っています。しかし、1924年、離婚。直ぐに、ダンサーのジェーン(June Smith)と結婚している。それから、絵を描き、小説を書きながら生涯5度の結婚をし、定職にはあまりつかず、基本的には実体験をベースとした、テーマを題材にした小説や絵画を描きました。作風は多面性をもった作家で、人間(彼)の持っている多面性が反映したものなのか描写が面白いとされています。彼を知る上では1930年から1940年まで住んでいたパリで書いた小説を忘れてはいけない。そこでは、『Tropic of Cancer (1934)の回帰線、『Black Spring(1936)、『Tropic of Capricorn (1938)の回帰線を脚色された性的描写のきわどい自伝的な3部作があり、それらはアメリカとイギリスで1960年代まで発刊禁止をされていた。そういった意味ではポルノ小説といわれた時期がある。彼の作品を紹介すると、1934年、北回帰線『(Tropic of Cancer)、1939年、南回帰線『Tropic of Capricorn』、1949年、薔薇色の十字架1 セクサス (Sexus)、1953年、薔薇色の十字架2 プレクサス (Plexus )、1955年、愛と笑いの夜『Nights of Love and Laughter』、1960年、薔薇色の十字架3 ネクサス『Nexus』、1948年、梯子の下の微笑『The Smile at the Foot of the Ladder』、1939年、宇宙的な眼『The Cosmological Eye』、1941年、マルーシの巨像『The Colossus of Maroussi』、1945年、冷房装置の悪夢『The Air-Conditioned Nightmare』、1947年、追憶への追憶『Remember to Remember』、1952年、わが読書『The Books in My Life』、1957年、ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ『Big Sur and the Orange of Hieronymous Bosch』などがある。最後になったが、彼は日本とも少し関係があった。彼が76歳の1967年に若い日本人のキャバレー歌手と結婚している。名前はトクダ・ヒロコ『Hiroko"Hoki"Tokuda』で、1977年に離婚をするのですが、離婚後、彼女は『北回帰線』と呼ぶ東京ナイトクラブに走ったといわれている。(柴咲らんど)

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2007年6月 6日 (水)

今日は何の日文学者たち

 ゲルハルト ハウプトマンGerhart Hauptmann、戯曲家、作家、男性、ドイツ人、1862年11月15日-1946年6月6日1912年にノーベル文学賞を授与された戯曲作者として有名な人物。彼はポーランドの一部として知られている小都市のシレジア(Silesia) Obersalzbrunnで生まれた。彼はプロシア(Prussian)のホテル経営者の息子として生まれ、地域の村の学校を卒業してからブレスラウ(Breslau)で実業学校に入学すると同時に彼のおじ(Jauer)の農場で農業に携わる。18855月、彼はベルリンに結婚して定住します。この頃から本格的に執筆活動に入り、次第に文学界に頭角を現していきます。1889年、彼の処女作となった作品『Vor Sonnenaufgang』、1890年『Das Friedensfest』、1891年『Einsame Menschen』、1892年『Die Weber』を次々と発表し、独文学界で評価を得ていった。後の彼の作品は、Kollege Crampton (1892), Der Biberpelz (1893)Der rote Hahn (1901) Hannele (1893),Florian Geyer (1895)Fuhrmann Henschel (1898)Rose Bernd (1903)Die versunkene Glocke (1897)Und Pippa tanzt (1905)などを発表していく。そして、1912年にノーベル文学賞を授与される。彼の作品は英訳されたものも多くありますが作品レベルでは、Elga (1896), Michael Kramer (1900), Schluck und Jau (1900), Der arme Heinrich (1902), Gabriel Schillings Flucht (1906), Die Jungfern von Bischofsberg (1907), Kaiser Karls Geisel (1908), Griselda (1909), Peter Brauer (1912), Festspiel in deutschen Reimen (1913), Magnus Garbe (1914, second version: 1942), Indipohdi (1920), Veland (1925), Herbert Engelmann , Spuk (two plays: Die schwarze Maske and Hexenritt, 1928), Die goldene Harfe (1933), Hamlet im Wittenberg (1935), Die Finsternisse (1937), Ulrich von Lichtenstein , Die Tochter der Kathedrale.Der Narr in Christo Emanuel Quint (1910), Atlantis (1912), Phantom (1923), Wanda, der D?mon (1926), Die Insel der grossen Mutter (1928), Um Volk und Geist (1932), Im Wirbel der Berufung (1936), Der Abenteuer meiner Jugend (1937).Bahnw?rter Thiel (1888), Die Ketzer von Soana (1924), Marginalien , Sonnen (1938), Der Schuss im Park (1939).Promethidenlos (1885), Anna (1921), Die blaue Blume (1924), Till Eulenspiegel (1927), Das Meerwunder (1934), Der grosse Traum.など他にも多数ある。(柴咲らんど)

 森 茉莉(もり まり、エッセイスト、小説家、作家、女性、日本人、1903年1月7日-1987年6月6日没、享年85歳)東京出身。東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鴎外と、森鴎外の2人目の妻志げの長女として生まれている。1919年、山田珠樹と結婚(生涯、20歳代での2度の離婚を経験)。1922年、1年間渡仏しパリに住居を構えるが父・森鴎外ガ亡くなる。1920年に長男、1925年に次男が出産。そして、1927年に離婚。戦時中で社会背景から『出戻り』であるため、肩身の狭い生活を強いられたようである。そんなことから、1947年より世田谷で一人暮らしを始める。1957年(当時:54才)のとき、森鴎外に関するエッセイ集、鴎外への想いを綴った『父の帽子』を発表。それが、第5回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞する。そして、鴎外と自分自身との不可思議ともいえる心の動きを描いた長編ロマネスク『甘い蜜の部屋』を発表し、泉鏡花文学賞を受賞。少年の愛を描いた『恋人たちの森』で田村俊子賞を受賞。彼女の本の紹介としては、甘い蜜の部屋(文庫-1996/12)、恋人たちの森(文庫-1975/4)、贅沢貧乏(文庫-1992/7)、私の美の世界(文庫-1984/12)、貧乏サヴァラン森茉莉・早川 暢子(文庫-1998/1)、記憶の絵(文庫-1992/2)、マリアのうぬぼれ鏡 森茉莉・早川暢子(文庫-2000/9)、父の帽子(文庫-1991/11)、魔利のひとりごと森茉莉・佐野洋子(単行本-1997/11)、ベスト・オブ・ドッキリチャンネル森茉莉・中野翠(文庫- 994/12)、マリアの気紛れ書き(文庫-1995/12)、私の美男子論 森茉莉・大倉舜二(単行本- 995/4)、薔薇くい姫・枯葉の寝床(文庫-1996/7)、マリアの空想旅行 森茉莉・小島千加子(文庫-2006/5)、甘い蜜の部屋 (1975)、記憶の絵 (1968)、私の美の世界 (1968)、枯葉の寝床 (1962) 森 茉莉 (- -1962)、父の帽子(1957)など他にも多数ある。(柴咲らんど)

 ケン グリムウッドKenneth Milton Grimwood (Ken Milton Grimwood)、SF小説家、ファンタジー作家、作家、アメリカ人、1944年2月27日-2003年6月6日没、享年59歳)アメリカのドーサン(アラバマ)で生まれ、処女作は1976年に発表した『Breakthrough』である。代表的な作品は、1976年『Breakthrough』、1979年『Elise』、1982年『Voice Outside』、1988年度世界幻想文学大賞を受賞した小説『Replay』(リプレイ)、1995年『Into the Deep』 (ディープ・ブルー)、1976年『Breakthrough』、1979年『Elise』、1982年『The Voice Outside』がある。彼は当初、ロサンジェルスのKNX 10.70Newsradio」のニュースのディレクターを勤めながら、小説のいくつかをアラン・コクラン(Alan Cochran)などのペンネームを使いながら書きます。彼のデビュー作の小説『Breakthrough(Ballantine1976))は予測できない結末を導き出すといったサイエンスフィクションと、生まれ変わる、恐怖の要素などの色々な要素を持ったものでした。内容は医療技術の発展によっててんかんが治った26歳のエリザベス・オースティンという女の脳に小型の電極を注入。電極を遠隔操作することで脳に変異が起り、正常な生活、問題の多い結婚、女の廃棄された経歴を……。といったものでした。また、アラン・コクランのPNで書かれた作品『Two Plus Two (Doubleday, 1980)も有名で、内容は外見上は無関係な3つの殺人事件がロサンジェルス・エリアで……。さて、警察は、さて、探偵ジョンソンは――。といった感じの小説でした。そして、日本でも有名な1988年(当時43歳)に「World Fantasy Award」(ワールド・ファンタジー・アワード)を受賞した『Repla (Arbor House, 1987)が発表されます。内容はタイムトラベル小説。心理描写が売り。死を通して、25年の完全な記憶を備えた生活を追体験する。ニューヨークの小さなラジオ局。ニュース・ディレクターをしている男が43歳で死亡。気がつくと学生寮。どうやら18歳に逆戻り。記憶と知識は元のまま、身体は25年前のもの。さて、あなたなら……。といった小説です。続いて、作品Into the Deep(William Morrow, 1995)は、クジラ目の知能を備えた魅力的な同一種内におけるイルカのコミュニケーションについて、イルカと運命的といえる出会いを果す男女四人。イルカのコミュニケーション能力と法則を探る海洋生物学者、マグロ漁船に乗り込みイルカ虐待の真実を追う報道ジャーナリスト、その漁船を操る船長、海の底近く海底油田の採掘をする掘削技師が、それぞれの運命を手繰り寄せ、ついにイルカから人類へのメッセージを受け取る……。人類とイルカの心温まる感動小説である。The Voice Outside』(1982)マインドコントロールおよびテレパシー、そして、小説『Elise ( 1979)、『エリーズ』はある女のDNAから話が始まり、何百年もの間様々な恋人と夫の彼女の経験をたどる。といった話である。日本語訳本は、『リプレイ』 杉山 高之訳(文庫-1990/7)、『ディープ・ブルー』布施由紀子訳(文庫-1997/8)がある。(柴咲らんど)

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2007年6月 5日 (火)

今日は何の日文学者たち

オー ヘンリーO. Henry, 小説家、作家、男性、アメリカ人、1862年9月11日-1910年6月5日)短編小説を得意とする作家であるが、大衆受けはしたが批評家には受けが良くなかった作家である。彼はノースカロライナにある内科医をしていた父親(Algernon Sidney Porter)の子として生まれ、3歳のときに母親を亡くし、祖母、父のおばによって育てられ、彼はドラッグストア、銀行員、テキサスの農場などで働いています。1882年、テキサスへ移ると、彼は2年間ラサル郡の農場に取り組み、1887年にアソール・エステス・ローチ(Athol Estes Roachという女性と結婚し、1人の娘と1人の息子を授かる。1894年、彼は『The Rolling Stone』という週刊誌を始めるのですが、この頃から彼はお酒に溺れ始め、週刊誌を失敗した時に、彼はヒューストン・ポスト(Houston Postのリポーターとコラムニストになる。1894年、彼がが出納係として働いていたオースチンのファースト・ナショナル銀行(First National Bank)から現金がなくなり、1897年に金銭を横領したという有罪判決を下され、コロンブス(オハイオ)の刑務所に1898年に収監されます。そして、彼は娘マーガレットを支援するためのお金を得ようと刑務所にいる間、短編小説を書き始め、1899年に彼の処女作『Whistling Dick's Christmas Stocking』(ディックのクリスマス用靴下に口笛を吹く)が マクルーアMcClure's Magazineマガジンに発表されると彼の冒険小説はアメリカの大衆から人気を博した。その後、作品を書き、1901年に刑務所を出るとオー・ヘンリー(O. Henry)と名前を変えている。その筆名変更についてはいくつかの説があり、アメリカではオリン・ヘンリーと呼ばれる刑務所の所員から匿名を得たとする説や刑務所で飲んでいた薬の解説書にみるフランスの薬剤師(Eteinne-オシアン・ヘンリー)の名前の略語であるとも言われている。彼は刑務所を出て、1902年ニューヨークに移り、1903年12月から1906年1月まで、複数の雑誌に短編小説を書き始め、雑誌ニューヨーク・ワールドのためには週単位で小説を書き始め、最初の短編集CABBAGES AND KINGSを1904年に発刊。第2段としては、2年後、1906年に『THE FOUR MILLION』を発刊し、貧困なカップルとクリスマスギフトにかんすることを書いた『The Gift of the Magi』などを掲載しました。その後、多数の短編小説を書きます。彼の生涯は10の小説集と600を越える短編小説によって終る。彼はアルコール中毒、健康障害および財政問題で苦難を強いられながらも生活習慣を変えることができなかったようです。1907年、同郷のグリーンズボロで生まれたサラ・リンゼー・コールマン(Sara Lindsay Colemanと結婚しますが、結婚による幸福もなく、1年で離婚。1910年6月5日にニューヨークにて肝硬変で他界します。彼の死後、『SIXES AND SEVENS(1911)』『ROLLING STONES(1912)』『WAIFS AND STRAYS(1917)』が発表され、1918年に彼(O.ヘンリー)を記念する賞『オー・ヘンリー賞』が設けられた。彼の代表作は、CABBAGES AND KINGS, 1904THE FOUR MILLION, 1906THE TRIMMED LAMP, 1907HEART OF THE WEST, 1907THE VOICE OF THE CITY, 1908THE GENTLE GRAFTER, 1908ROADS OF DESTINY, 1909LO, 1909 (play, with Franklin P. Adams, music by A. Baldwin Sloane)OPTIONS, 1909STRICTLY BUSINESS, 1910WHIRLIGIGS, 1910LET ME FEEL YOUR PULSE, 1910THE TWO WOMEN, 1910SIXES AND SEVENS, 1911ROLLING STONES, 1912WAIFS AND STRAYS, 1917THE COMPLETE WRITING OF O. HENRY, 1918 (14 vols.)O. HENRYANA, 1920SELECTED STORIES, 1922 (ed. by Alphonse Smith)LETTERS TO LITHOPOLIS, FROM O.HENRY TO MABEL WAGNALLS, 1922POSTSCRIPTS, 1923THE BEST OF O. HENRY, 1929MORE OF O. HENRY, 1933O. HENRY ENCORE, 1936O. HENRY'S NEW YORK, 1940 THE BEST SHORT STORIES OF O. HENRY, 1945 (ed. by Bennett Cerf and Van H. Cartmell)THE POCKET BOOK OF O. HENRY, 1948 (ed. by Harry Hansen)COPS AND ROBBERS, 1948 (ed. by Ellery Queen)COMPLETE WORKS OF O HENRY, 1953 (2 vols.)O. HENRY WESTERNS, 1961 (ed. by Patrick Thornhill)THE STORIES OF O. HENRY, 1965 (ed.by Harry Hansen)FOUR MILLION & OTHER STORIES, 1976COLLECTED STORIES OF O. HENRY, 1986THE BEST SHORT STORIES OF O. HENRY, 1994 、などがある。また、さらに彼に興味がおありなら彼のことを書いた次のものを読まれると良いと思いますので記述します。O. Henry Biography by Alphonse Smith (1916); O. Henry: The Man and His Work by Eugene Hudson (1949); The Heart of O. Henry by Dale Kramer (1954); Alias O.Henry: A Biography of William S. Porter by Gerald Langford (1957); O. Henry, ed. by Eugene Current-Garcia (1965); O. Henry, Short Story Writer by Lucas Longo (1982); O. Henry: A Biography of William Sydney Porter by David Stuart (1987); O. Henry Biography by Charles A. Smith (1992); O. Henry; A Study of the Short Fiction by Eugene Current-Garcia (1993); O. Henry, ed. by Harold Bloom (1999); The Amazing Genius of O. Henry by Nicholas V. Lindsay and Arthur W. Page (2001) - See also: Raymond Carver, Truman Capote - Suom: Suomeksi O. Henryltä on julkaistu valikoima Tietäjien lahja (1979). 日本語翻訳本を紹介します。『最後のひと葉』 金原 瑞人。『20年後 オー・ヘンリー』和田 誠、千葉 茂樹。『最後のひと葉オー・ヘンリー傑作短編集』 大久保康雄。『オー・ヘンリー傑作選』大津栄一郎。『最後の一葉 オー・ヘンリー』中山知子、岩淵慶造。『人生は回転木馬オー・ヘンリー』千葉茂樹、和田 誠。『賢者のおくりもの オー・ヘンリー』リスベート・ツヴェルガー、矢川澄子。『オー・ヘンリー短篇集』中内正利。『賢者のおくりものオー・ヘンリー傑作選』飯島淳秀、岩淵慶造。『オー・ヘンリー短篇集』芦川長三郎。『オー・ヘンリー傑作選』大津栄一郎。『最後のひと葉』有吉玉青、米倉斉加年。『ほんもののプレゼント』岸田今日子、 東逸子。『対訳オー・ヘンリー』小倉多加志。『オーヘンリー傑作選』上山政義。『オー・ヘンリー傑作集(2)二十年後』飯島淳秀。オー・ヘンリー名作集西田義和。『オー・ヘンリー傑作集 改版』飯島淳秀。『オー・ヘンリー傑作集(1)最後の一葉』飯島淳秀。『オー・ヘンリー短編集』村祭まこと。甦った心 他 岩城久哲。『オー・ヘンリー短篇集』岡田春馬。(柴咲らんど)

エリナー ファージョンEleanor Farjeon、劇作家、児童文学作家、作家、女性、イギリス人、1881年2月13日―1965年6月5日彼女は作家の父親(ベンジャミン・レオポルド・ファージョン)と彼女の母親マギー(ジェファーソン)ファージョンという有名なアメリカの俳優の娘の間に生まれた。本好きで8歳ごろから眼鏡をかけていたといわれている。彼女は小さな5歳のころには文才を発揮し、その後、様々な経緯をへて、詩人、劇作家、作家、脚本家として『Daily Herald, London (1917-30)』(デイリー・ヘラルド、ロンドン)やタイムなど、1920年代にレギュラー作家として活躍をしている。経歴については兄のオペレッタの台本を18歳で書いたとか、16歳で書いたとかで様々な説があり確定と検証ができず詳しくは現時点では書けませんでした。作品は、『Martin Pippin in the Apple Orchard – 1921』(リンゴ園のマーティン・ピピン-1921年)、"The Spring Green Lady" - A Children's Singing GamePrologue - Three Parts - Gillian's story - Beginning - How she came to be imprisioned in the mill house guarded by six man hating milkmaids"The King's Barn" - Joan's Tale"Young Gerard" - Joyce's Tale"The Mill of Dreams" - Jennifer's Tale"Open Winkins" - Jessica's Tale"Proud Rosalind and the Hart Royal" - Jane's Tale"The Imprisoned Princess" - Joscelyn's TalePostlude - Four Parts - Gillian's Tale - Conclusion - How she escapes and chooses Martin over Robin Rue。『Faithful Jenny Dove and Other Tales – 1925』(ハトと他の物語 - 1925年)。『Mighty Men: Achilles to Julius Caesar, Beowulf to Harold – 1925』、"Queen Esther""The Secret Path "。『Nuts and May – 1925』、『Italian Peepshow – 1926』、"Bridget in Italy""Oranges and Lemons""The Birthday Carnival""Rosaura's Birthday""Anina" "The King of Tripoli Brings the Pasta""Nan and Cecchino""The Herb of Fear""Nella's Dancing Shoes""Good Bye to Italy""The Story of Mr and Mrs Ringdaly"、『Kaleidoscope – 1928』(万華鏡-1928年)、"The Eye of the Earth""Baa and 'Lla" "A Silver New Nothing" "The Trees that Made the WInd""Beautiful Image I See""The Hill of the Sun ""Jacob's Ladder""The Man who Pretended to Eat""Anthony goes Blackberrying""What Hurts One Hurts Another""Mother Skip""The Man Who Found Mushrooms""The Wonderful Clock""The Abbot's Kitchen" "Anthony Walks to School" "Mammy Two Coats" "The Lovely Miller""The Man who heard The Trees Grow""The Roman Puppets""On the Road""Kalos Eidos Scopeo (Through the Tree)""Kalos Eidos Scopeo (Through the Gate)"、『The Tale of Tom Tiddler – 1929』(トム幼児の物語 - 1929年)、Tales from Chaucer: The Canterbury Tales Done in Prose – 1930』、『The Old Nurse's Stocking Basket – 1931』(年を取った看護婦のストッキングかご - 1931年)、"Bertha Goldfoot""The Blue Lotus""The Proud Infanta""Can Men be Such Fools as All That""The Veil of Irazade""Lipp the Lapp""The Roof Tree""You can't darn THAT hole""The Princess of China""The Golden Eagle""The Blue Lotus"、『Perkin the Pedlar – 1932』(パーキン、行商人 - 1932年)、Jim at the Corner and Other Stories- 1934』、"Little Boy Pie""The Green Kitten""The Isle of Plenty""Flip the Penguin""The Ninth Wave""The Star that Watches the Moon""The Great Sea Serpent""Chimmapanzy and Pollymalloy"Jim smells the Sea、 『Ten Saints – 1936』 (10人の聖人- 1936年)、"Saint Christopher""Saint Martin""Saint Dorothea""Saint Bridget""Saint Patrick""Saint Hubert""Saint Giles""Saint Simeon Stylites""Saint Francis"、『Martin Pippin in the Daisy Field – 1937』(デージー分野でのマーチン・ピピン- 1937年)、"Tom Cobble and Ooney" - Sophie's story"Elsie Piddock Skips in Her Sleep"* - Sue's story"The Tale of Selsey Bill" - Stella's story"The Long Man of WIlmington" - Selina's story"The Mermaid of Ryle" - Sylvia's Tale"Uncle Nicodemus and Little Jenkyn" - Sib(yl)'s TaleGillian's last word - Bedtime!、『One Foot in Fairyland: Sixteen Tales – 1938』(仙境の1フィート:シックスティーン物語 - 1938年)、The New Book of Days – 1941』、『The Little Bookroom – 1955』(小さな書庫 - 1955年)、"The King and the Corn""The King's Daughter cries for the Moon""Young Kate""The Flower without a Name""The Goldfish""The Clumber Pup""The Miracle of the Poor Island""The Girl who Kissed The Peach Tree""Westwoods""The Barrel-Organ""The Giant and the Mite""The Little Dressmaker""The Lady's Room""The Seventh Princess""Leaving Paradise""The Little Lady's Roses""In Those Days""The Connemara Donkey""The Tims""And I Dance Mine Own Child""The Lovebirds""San Fairy Ann""The Goldfish""The Glass Peacock""The Kind Farmer""Old Surly and the Boy""Pannychis"、『Eleanor Farjeon's Book – 1960』(エリナー・ファージョンの本 - 1960年)など他、多数ある。日本語翻訳本としては、『エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする』(エリナー・ファージョン著シャーロット・ヴォーク画 石井桃子訳 岩波書店版)、『ムギと王さま 新装版』(エリナー・ファージョン著 石井桃子訳 岩波書店版)、『訪問者』(エリナー・ファージョン著赤木かん子編 ポプラ社版)、『ファージョン自伝』(エリナー・ファージョン著 広岡弓子訳 原山美樹子訳 西村書店 版)、『マローンおばさん』(エリナー・ファージョン著阿部公子訳 茨木啓子訳 こぐま社版)、『マローンおばさん』(エリナー・ファージョン著阿部公子訳 茨木啓子訳 こぐま社版)、『ファージョン作品集7冊セット』(エリナー・ファージョン著 岩波書店版)、『想い出のエドワード・トマス』(エリナー・ファージョン著早川敦子訳 白水社版)、『ガラスのくつ』(エリナー・ファージョン著 石井桃子訳 岩波書店版:ペローの昔話「ガラスのくつ」とは異なるシンデレラ物語で主人公が明るく活発な女の子……)、『銀のシギ』(エリナー・ファージョン著石井桃子訳 岩波書店版:気だてはいいが食いしんぼうの粉屋の娘が小鬼のたくらみにはまる。銀のシギの助けを借りて……)、『ヒナギク野のマーティン・ピピン』(エリナー・ファージョン著石井桃子訳 岩波書店版:ヒナギク野で遊ぶ6人の女の子に,旅の歌い手マーティン・ピピンが語る楽しいお話)、『りんご畑のマーティン・ピピン』(エリナー・ファージョン著石井桃子訳 岩波書店版:恋人とひきさかれ牢屋にとじこめられている少女が牢屋のかぎを……)、『ムギと王さま』(エリナー・ファージョン著 石井桃子訳 岩波書店版)、『年とったばあやのお話かご』(エリナー・ファージョン著石井桃子訳 岩波書店版:毎晩、4人の兄弟が子ども部屋で楽しいお話を年をとったばあやがしてくれます。そんな空想の世界……)、『イタリアののぞきめがね』(エリナー・ファージョン著石井桃子訳 岩波書店版:太陽のあふれる国イタリアにすんでいると、ばあやがそこにもやってきてイタリアについてのさまざまなお話を始める。グリーナウェイ賞を受賞したアーディゾーニのさし絵が魅力的である)などがある。(柴咲らんど)

  西脇 順三郎(にしわきじゅんざぶろう、詩人、英文学者、1894年1月20日-1982年(昭和57年)6月5日)新潟県出身。新潟県北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)に生まれる。小千谷銀行の役員を務めていた父の子として生まれ、画家を志す。1906年(明治33年)に小千谷尋常高等小学校入学。1906年(明治39年)に県立小千谷中学校(現県立小千谷高校)に入学。1911年(明治44年)、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家で明治から昭和前半まで日本の洋画壇をリードした浪漫主義的な作風の作品を書いていた藤島武二や、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させ、将来的には白馬会を発足させる黒田清輝らを頼って彼は上京するが、父が急死など、諸事情で夢であった画家の道を残念。1912年(明治45年)、慶應義塾大学理財科予科(現在の経済学部)入学し、1917年(大正6年)に卒業。1920年(大正9年)、慶應義塾大学理財科予科教員に就任。1922年(大正11年)、慶應義塾大学英文学研究のため、イギリスのオックスフォード大学に留学する。英文詩集『Spectrum』を自費出版。1924年(大正13年)、イギリス人画家マージョリ・ビドルと結婚。翌年、1925年(大正14年)に日本に帰国。慶應義塾大学教授となり、英文学史などを担当することになり、1926年(大正15年)、慶應義塾大学の文学部教授に就任する。1927年、『馥郁タル火夫ヨ』『超現実主義詩論』、1928年『シュルレアリスム文學論』を刊行。同年、1928年『詩と詩論』を創刊。1932年(昭和7年)、マージョリと離婚し、桑山冴子と結婚する。1933年、詩集『ambarvalia(アムバルワリア)』を発表。この時期から彼は詩文学から学術研究の立場に立った研究に没頭していく。1938年(昭和13年)に長男(順一)が生まれる。1944年(昭和19年)、小千谷へ疎開するが、翌年1945年(昭和20年)に帰京。その2年後、1947年(昭和22年)に『あむばるわりあ』『旅人かへらず』を発表。1949年(昭和24年)に文学博士の学位を授与され、1964年(昭和39年に小千谷市名誉市民となる。代表作は長編詩集『失われた時』『豊饒の女神』『えてるにたす』など、彼の代表作となる作品が一連の詩集として発表される。代表的な作品には、『Ambarvalia』『あむばるわりあ』『旅人かへらず』『近代の寓話』『あんどろめだ』『第三の神話』『失われた時』『豊饒の女神』『えてるにたす』『宝石の眠り』『禮記』『壌歌』『鹿門』『人類』などがある。1978年(昭和53年)小千谷市立図書館に「西脇順三郎記念室」が開設されている。(柴咲らんど)

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2007年6月 4日 (月)

今日は何の日文学者たち

本日とりあげた人物は文学者ではありませんが、ちょっと今日だけは休憩を。

徳川 家綱(とくがわ いえつな、1641年9月7日(寛永18年8月3日)-1680年6月4日(延宝8年5月8日没、40歳))第四代将軍(在職1651年-1680年)で3代将軍家光が38歳のときに長男として江戸城本丸で生まれる。その後、綱重、綱吉が生まれる。1644年(正保元年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年4月に元服。弟忠長との間に世継争いがあったとする説もあり不安定な政権であったといわれる。母は側室増山氏、竹千代の幼名を与えられ世子とされる。乳母は矢島局で正室は伏見宮貞清親王の娘・浅宮顕子であった。側室は養春院(お振)と円明院(お満流)がいた。1650年(慶安3年)9月、西の丸へ移る。1651年(慶安4年)、3代将軍家光が48歳にして死去。家綱は10月2日(旧暦8月18日)、江戸城で将軍宣下を受け内大臣に序せられる。同年、12月に江戸城本丸へ移る。以降、京都で行なわれていた将軍宣下が江戸で行われることとなる。時は、数えで家綱11歳であったため、幕府転覆計画もあったが、大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、保科正之らが補佐役につき、政権を治めた。『慶安の変』などで混乱が起ったことから、家光時代のように改易され職を失った浪人達に不穏な動きがでないようにと改易を大幅に減少させるなど、何事にも温和な政治手法を家綱政権はとった。家綱の政権末期には酒井忠清らが政権の中枢に座り、独裁的な政治を行なうが特に政権をゆるがすような問題はなかった。そして、家綱は40歳の若さでこの世を去る。墓所は上野寛永寺、法名は厳有院である。(柴咲らんど)

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2007年6月 3日 (日)

今日は何の日文学者たち

フランツ カフカ(Franz Kafka,小説家、作家、チェコ人、1883年7月3日-1924年6月3日)ユダヤ人の家庭に生まれた。作品はドイツ語で発表した。オーストリア領プラハ市の裕福なチェコ系ユダヤ人の商人ヘルマン・カフカ(Hermann K. )とユーリエ・レーヴィ(Julie née Löwy)の間に長男として生まれた。1901年、プラハ・ドイツ大学(プラハ大学)で法学を学ぶ。1902年10月、チェコ出身のユダヤ系作家で音楽評論家になるマックス・ブロートと知り合い、マックス・ブロートはカフカのことを色々と面倒をみるようになる。カフカが書いた作品を亡くなるまで著作管理し、カフカ死後は未刊の原稿が焼却処分されるところを救ったという説がある。そんな一生に一人という親友と出会っている。1906年6月、カフカは法学博士号を取得し地方裁判所で研修を受けた。翌年、1907年、プラハにある保険会社に就職する。1908年3月、隔月刊誌『ヒュペーリオン』に『観察』を発表。同年、7月30日、プラハ・ベーメン王立労災保険局に就職する。1909年、『ある戦いの記録』第二版を発表。1912年『判決』『変身』を発表。1913年3月『火夫』発表。1914年 6月1日、フェリーツェと婚約。同年、7月12日婚約破棄。同年、1914年8月、『審判』『流刑地にて』を発表。1917年、フェリーツェと二度目の婚約。同年9月4日、病魔(結核)に侵される。同年、1914年12月、またまた2度目の婚約破棄。1918年 妹オットラの管理運営する農場で療養を開始。1919年、ユーリエ・ヴォフリゼク(Julie Wohryzek)と婚約。同年、1919年11月に『父への手紙』を発表。1920年4月、南チロル・メラーン(メラーノ)で病気の休暇を開始。同年、1920年7月、)ユーリエ・ヴォフリゼク(Julie Wohryzek)との婚約を破棄。1922年『城』『断食芸人』を発表。1923年 ドイツ・バルト海沿岸のミューリッツ(w:Müritz)でユダヤ人女性のドーラ・デューマント(Dora Dymant)と出会う。同年、1923年9月、ベルリンにてドーラ・デューマント(Dora Dymant)と同棲生活を開始。同年、『小さな女』を発表。1924年、健康状態悪化により、3月プラハに戻り、『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠の一族』を発表。同年4月からウィーン近郊のサナトリウムに滞在する。彼はいまユダヤ人墓地に埋葬されている。邦訳された彼の代表作品を出版レベルで紹介すると、『変身』については、訳が山下肇の岩波文庫、訳が高橋義孝の新潮文庫、訳が中井正文の角川文庫、訳が池内紀の白水ブックス。『審判』についても、訳が辻ヒカル、池内 紀、本野 亨一、飯吉 光夫、原田 義人、中野 孝次など、多数の出版物がある。他、『失踪者』『カフカ短編集』『カフカ寓話集』なども日本で翻訳され出版されている。翻訳本は翻訳者の力量により本の内容が微妙に異なる為、よく吟味して本を購入されるとよいと思います。(柴咲らんど)

佐藤 紅緑(さとう こうろく、劇作家、俳人、小説家、作家、男性、日本人、1874年(明治7年)7月6日-1949年(昭和24年)6月3日没、享年75歳)青森県出身。本名は洽六。彼は弘前市に生まれた。青森県尋常中学校(現、弘前高校)を中退。1893年(明治26年)、同郷の先輩・陸羯南(くがかつなん)をたよって上京する。そして、1年近く玄関番を勤めていたが、1994年(明治27年)に陸羯南の経営する「日本新聞社」に入社。そのとき、新聞社の社員であった正岡子規と出会う。正岡子規の勧めと教えがあって俳句をはじめる。「紅緑」という号も、正岡子規が紅緑の本名・洽六(こうろく)からつけたものといわれている。ところが、1895年(明治28年)、病魔に侵され帰郷。帰郷すると紅緑は高緑東奥日報社に入社し、日本派と称される俳句を広める活動を始める。そして、小説、正岡子規門下の俳人として本格的に執筆するようになる。1896年(明治29年)、東北日報社(翌年河北新報社)の主筆になり、1900年(明治33年)、報知新聞社に入社。俳人としての頭角を現すからわら、大デュマ、ヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳も手掛けようになる。1905年(明治38年)、新聞社(記者)を退社し、俳句の研究会を発足。1906年(明治39年)6月、俳誌「とくさ」の監修者となる。同年10月、高田実の要請により、初めての脚本『侠艶録(きょうえんろく)』を書き、上演されると好評で本郷座の座付作家として名前をあげ、当時の新派・人気劇作家として脚光をあびる。そして、同年11月に短編小説『あん火』を「中央公論」に発表。続いて小説『鴨』などを発表。今度は小説家として、当時流行の自然主義的な作品を書く作家として文壇の注目を浴びる。1908年(明治41年)創作集『榾(ほだ)』を刊行。小石川音羽町から同茗荷谷に移っている。紅緑は、1912年(明治45年)、1905年(明治38年)から1912年(明治45年)まで「都新聞」の俳壇選者として活躍するが、俳人としての限界と俳文学について思うところがあり「とくさ」の監修をこの年で辞している。俳句の執筆をこの時期をさかいに休止し、小説『霧』、翌年、1913年(大正2年)小説『谷底』と、新聞への小説連載を開始している。1915年(大正4年)には劇団新日本劇の顧問となる。代表作をあげると、『家出せし子を思ふ夜の雪深し』、この作品は様々な問題を起こす息子に対するやるせない紅緑の心情を歌ったものといわれている。皆さんもご存知の歌の歌詞(『あゝそれなのに』『うちの女房にゃ髭がある』『悲しくてやりきれない』『ちいさい秋みつけた』『長崎の鐘』『花売娘』『ホームラン・ブギ』『目ン無い千鳥』『リンゴの唄』『あした天気になあれ』『うれしいひなまつり』『誰かさんと誰かさん』『ゆびきりげんまん』)などを書いたサトウハチロー(本名は八郎)が紅緑の長男で、紅緑が舞台女優三笠万里子と関係を持ち、同棲などを通して愛を育むことがサトウハチローにとってその行為が思春期でやるせなくて反発したのか、結局のところ中学を落第、退校を余儀なくされたり、その上、何度となく警察の留置所にも入ったりと紅緑も勘当を繰り返しながら家庭問題で悩んだようである。余談だが、作家の佐藤愛子は三笠万里子の娘であり、ハチローの異母妹に当たる。他の代表作は、1906年(明治39年)10月に本郷座で上演された戯曲の『俠艶録』である。この戯曲は歌舞伎を劇中劇にとり入れる趣向をこらしたもので当時は人気を博した。小説では「少年倶楽部」の編集長加藤謙一の懇望によって、1927年(昭和2年)5月から連載を始めた第一作「あゝ玉杯に花うけて」がある。この作品は家が貧乏で進学ができずに豆腐を売る主人公青木千三(チビ公)が、親友や先生に助けられながら進学を残念せずに、念願の一高受験に成功し、最後に寮歌を唱うという話である。悪役に中学生を配し、真っ直ぐ理想の道を様々な社会の苦難を乗り越えながら突き進むといった若者、少年たちを勇気付けるものであったようである。(柴咲らんど)

清岡 卓行(きよおか たかゆき、詩人、小説家、作家、男性、日本人、1922年6月29日-2006年6月3日没、83歳)中国・大連生れ。妻は作家の岩阪恵子(いわさか けいこ、本名 清岡惠子)である。彼は東京大学文学部の仏文科を卒業。彼の功績は1970年『アカシヤの大連』で芥川賞を受賞。1978年、『藝術的な握手』で読売文学賞を受賞。1985年、『初冬の中国で』で現代詩人賞を受賞。1989年、『円き広場』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1990年、『ふしぎな鏡の店』で読売文学賞を受賞。1992年、『パリの五月に』で詩歌文学館賞を受賞。1995年、芸術院賞(詩歌部門)を受賞。1996年、『通り過ぎる女たち』で藤村記念歴程賞を受賞。1999年、『マロニエの花が言った』で野間文芸賞を受賞。2002年、『一瞬』で現代詩花椿賞を受賞。2003年、『一瞬』と『太陽に酔う』で毎日芸術賞を受賞。などで理解でき、詩から散文にいたる彼の業績を知ることが出来る。彼は、ロシアと日本の租借地であった中国の大連で生まれた。途中、一高、東大で勉学に励む以外は終戦をむかえるまで20数年の年月を引き上げるまで大連で過ごしている。ただ、1949年、東大在学中であるがプロ野球の日本野球連盟に就職している。のち、セ・リーグ事務局に勤務。日程編成を担当し、現在ではよく耳にする「猛打賞」を発案したことでも知られています。1964年、セ・リーグ事務局を退社し、法政大学講師から教授となり、教壇にたっている。処女詩集といえば『氷った焔』で、彼が37歳のときの作品がある。彼の作品群は詩も散文も独自の文体リズムがあり、洗練された文章で、文壇でも評価が当時から高かった。同時期に発刊された評論『廃虚で拾った鏡』も彼の評論の代表作といわれている。その後、最初の妻の死を契機に散文小説を書き始め、大連をバックにする作品と、亡き妻に捧げる作品を書いている。1970年、岩阪恵子と結婚する。2006年、東京で死去。詩の作品では、『氷った焔』『日常』『四季のスケッチ』『ひとつの愛』『固い芽』『駱駝のうえの音楽』『西へ』『幼い夢と』『初冬の中国で』『円き広場』『ふしぎな鏡の店』『パリの五月に』『通り過ぎる女たち』『一瞬』『ひさしぶりのバッハ』がある。 散文作品としては、『詩と映画/廃虚で拾った鏡』『手の変幻』『アカシアの大連』『抒情の前線』『フルートとオーボエ』『海の瞳』『鯨もいる秋の空』『サンザシの実』『花の躁鬱』『萩原朔太郎「猫町」私論』『詩礼伝家』『夢を植える』『窓の緑』『藝術的な握手』『邯鄲の庭』『桜の落葉』『夢のソナチネ』『薔薇ぐるい』『大連小景集』『猛打賞』『李杜の国で』『別れも淡し』『大連港で』『薔薇ぐるい』『清岡卓行大連小説全集』『蝶と海』『郊外の小さな駅』『マロニエの花が言った』『太陽に酔う』『断片と線』などがある。(柴咲らんど)

カミーユ フラマリオンCamille Flammarion,天文学者、作家、男性、フランス人、1842年2月26日-1925年6月3日)正式には、ニコラ・カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion)という。フランスにおける天文学会(fr:Société_astronomique_de_France) を創設した人物で、天文学にかかる著書を多く発表している。1912年、レジオンドヌール勲章受勲。4人兄弟の長男に生まれ、書籍の出版・販売で有名なフラマリオン・グループの創設者(エルネスト・フラマリオン)は彼の弟。彼はオートマルヌ県(department of Haute Marne)モンティニー・ル・ロワ(Montigny-le-Roi)に生まれた。当初は神学を学んでいたのですが、天文学に興味を持ち、1858年、当時16歳にして500ページにもおよぶ原稿『Cosmologie Universelle』を書いている。1854年にパリの観測所の所長として海王星の発見に結びついた計算(ルヴェリエ法)で最もよく知られることとなるルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier.1811 -1877)の助手となってパリの観測所における天文学の研究に参加。カミーユ フラマリオンがアシスタントとなったルヴェリエという人物も偉大な天文学者で、26歳でパリにあるEcole工業短大の天文学の教師となると、水星の運動に関する専門的な研究を始め、1846年に後に海王星と名付けけられる新惑星を発見する。その新惑星が発見される前に天王星が発見されていたのですが、その軌道が理論上のニュートン力学とずれがあることを予言し、星の位置解析を数学者であったことから計算して発見したものである。このような人物がカミーユ・フラマリオンにも大きな影響をおよぼし、カミーユ・フラマリオンはSF小説のようにわかりやすく天文学を世に知らしめ、天文科学の研究を通して70を超えるタイトルの著書を発刊している。天文学を身近なものにした人物といえる。1858年、パリ天文台で共同研究者として参加したのち、1862年から1867年まで彼は、一時的に事務局で働き、その後、星を観察するプログラム(program of double star observingに没頭するため観測所へ戻る。1873年と1885年には、火星の色が植物に起因するかもしれないという仮説を発表。1879年に、そのことが大衆雑誌(L'astronomie Populaire)に発表した。それが好評で10万部以上の売上げを記録したとある。のち、J.E.ゴアによる英訳版が1894年に発刊されるが、その原本となる仮説論文である。彼は1883年、ジュイヴィー(Juvisy)で個人の観測所ジュイヴィー・シュル・オルジュ天文台を設立し、月、火星、多重星(double and multiple stars)の研究を継続して行なう。そして、1887年、フランス天文学会を創設し、初代学会長となる。同年、月報の執筆・出版を主導し、フランスの天文学の発展に貢献。1892年、『火星とその居住可能性の諸条件』を執筆・出版し、火星に運河、海、火星人が暮らすとしたことで話題になる。彼のいう、火星人とは地球人よりも優れた種族であると仮説をとなえたのである。それだけ聞くと単なるSF小説や怪奇小説のようではあるが、のちにフラマリオンは月のクレーター(Moon Crater 3.4S, 3.7W, 74.0 km diameter, in 1935)に名も残し、小惑星(10211924 RG)を1924年3月11日にマックス・ウルフによって発見した功績も残しているのである。1874年、シルヴィー・プチオーと結婚。そして、死別。1919年、助手であったガブリエル・ルノド(Gabrielle Renaudot (1876-1962)と恋に落ち再婚。ガブリエル・ルノドも1925年、彼が死去するまで6年間、フランスで一緒に天文学の研究をする。彼の業績は諸惑星に対する太陽の影響や太陽系についての研究であり、太陽の黒点の研究家としても知られている。いまは、ガブリエル・ルノドと並んで観測所公園の隣りに眠っている。彼の功績の残る著書には、La Pluralité des mondes habités (1862)Les Mondes imaginaires et les mondes réels (1865)Études et lectures sur l'astronomie (9 volumes, 1866-1880)Contemplations scientifiques (1870)L'Atmosphère (1871)Récits de l'infini (1872)Lumen, histoire d'une comète (1872)Dans l'infini (1872)Les Terres du ciel (1877)Atlas céleste (1877)Cartes de la Lune et de la planète Mars (1878)Catalogue des étoiles doubles en mouvement (1878)Astronomie sidérale (1879)Astronomie populaire (1880, couronnée par le prix Montyon de l'Académie française)Le Monde avant la création de l'homme (1885)Les Comètes, les étoiles et les planètes (1886)L'atmosphère: météorologie populaire (1888)Uranie (1889)Centralisation et discussion de toutes les observations faites sur Mars (2 volumes, 1892-1902)La fin du monde (1894)Les Imperfections du calendrier (1901)Les Phénomènes de la foudre (1905)L'Atmosphère et les grands phénomènes de la nature (1905)L'Inconnu et les problèmes psychiques (1917)La Mort et son mystère (1917)、など他にも多数ある。(柴咲らんど)

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2007年6月 2日 (土)

今日は何の日文学者たち

小田 嶽夫(おだ たけお、作家、男性、日本人、1900年(明治33年)7月5日-1979年(昭和59年)6月2日)新潟県出身。本名は武夫。新潟県高田市(現・上越市)竪春日町で生まれる。1913年(大正2年)県立高田中学(現新潟県立高田高等学校)に入学。その後、1922年(大正11年)東京外国語大学の支那語学科を卒業。外務省に入省する。1924年(大正13年)外務書記として中国・杭州の領事館に赴任する。1928年(昭和3年)5月、日本へ中国より帰国。1936年(昭和11年)、執筆をしていた『城外』で第3回芥川賞を受賞。1941年(昭和16年)陸軍報道班員として徴用され、ビルマに従軍。1944年(昭和11年)高田に疎開する。1945年(昭和20年)、直江津の捕虜収容所に勤務。1946年(昭和21年)、雑誌『「文芸冊子」を発刊。1949年(昭和24年)帰京。1978年(昭和53年)、高田の金谷山に小田嶽夫文学碑が建立され、翌年の1979年(昭和59年)に亡くなる。代表作としては、1936年(昭和11年)の『城外』、1949年(昭和24年)の『裏がわの町』、1973年(昭和48年)の『高陽草子』などがある。作風は中国での体験や、郷土の高田への様々な思いを描いた作品が多いようにおもわれる。例えば、『城外』の冒頭文の抜粋であるが、『二十五歳の晩夏のことである。神戸を出発ってから六日目の夕方支那杭州の領事館へ着いて、前任書記生の杉本の支那風の古びた官舎の二階に落ちつき、珍らしい支那料理と麦酒の饗応にあずかっている間じゅう、円卓のわきに南洋製の棕櫚の葉の団扇で扇ぎながら、丈の高い鼻の小さく、額のおでこの、浅黒い顔色の支那人の阿媽(女中のこと)が立っていた。この阿媽を自分がひきつづいて使うことになるのだろうと思いながら、淋しい気持で私は食事をしたためた。着いてから、十日目に杉本夫婦は北支那の新任地へ出発って行った。その日の夕方着いてから初めて一人で食卓につき、阿媽に向って、「中国の料理は美味なり、われ日本にいるころより愛したり」とおぼつかない支那語で言うと、阿媽は「さなり、さなり、日本の方々は大方中国の料理を好まる」とつつましく微笑みながら言った。――』とある。出版レベルでの本の紹介では、魯迅選集 創作集1、三笠山の月 ──小田嶽夫作品集、断橋の佳人、城外 夜さくらと雪*小田嶽夫作品集、回想の文士たち、紫禁城の人、 断橋の佳人(中国男女怪談)、小田嶽夫作品集 城外・夜ざくらと雪・等10作品収録、回想の文士たち、青春と文学 石川啄木、漂泊の中国作家、桃花扇・朱舜水、前島密、小田嶽夫草稿、望郷 芥川賞作家シリーズ、芥川賞全集第二巻 城外、森林の池畔で、寡婦しげ女、義和団事件、魯迅傳 (魯迅伝)、<青春の日記>石川啄木、中国武将伝 史記・三国志の英雄、恋に滅びた人びと 近松の名作から、郁達夫伝 その詩と愛と日本、真実の行方 第12部 裁かれる人びと、杭州城図会 版画荘文庫、小説坪田譲治、郁達夫伝、など他にも多数の本が出版されている。(柴咲らんど)

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2007年6月 1日 (金)

今日は何の日文学者たち

 林 鵞峰(はやし がほう、儒学者、漢学者(朱子学派)、詩文家、男性、日本人、1618年7月21日(元和4年5月29日)-1680年6月1日(延宝8年5月5日)京都出身。父は林羅山(江戸前期の漢学者(朱子学派)として有名な人物で、京都建仁寺で禅学を修行した後、藤原惺窩に師事し推挙され徳川家康に仕え江戸幕府の教学・制度の創設に参画し、秀忠・家光・家綱の四代将軍に仕えた人物。通称「道春点本」と呼ばれる漢籍は有名で、他に、『大学要略抄』『老子経頭書』『孫子諺解』などの著作物がある。詩文は、『羅山文集』75巻、『羅山詩集』75巻。名は忠・信勝。別号は羅浮山・浮山・羅洞・長胡・瓢庵・尊経堂・梅花村・夕顔庵)の第3子として生まれる。名は恕・春勝、字は子和、号は桜峰、僧号は春斎という。父の羅山、那波活所、松永貞徳に師事し、17歳で江戸に下り、剃髪する。そして、3代将軍徳川家光に仕え、儒学を講じるようになる。礼制の制定、訴訟、外交の諮問として力を発揮した。のち、幕府の命により父(羅山)とともに『諸家系図伝』や『本朝通鑑』の編纂に従事する。1663年(寛文3年)徳川家より『弘文館(院)学士号』の称号を授与され、林家の上野忍ヶ岡に設けていた私塾を弘文館と改称し、官立並に地位を昇格させたことは大きなことであった。それは、単に「弘文院学士」の名号を授与されたということではなく、教育や外交に参与する代表的な文官の地位を表象する官職(名号)の地位を確保する意味で大きく、従来の儒者の立場、地位の向上、また、対朝鮮外交の局面では林家の国内外での地位を知らしめるために役立ったとされている。著書は『鵞峰全集』『日本王代一覧』『国史実録』などがある。詩文として有名な現行出版物としては『鵞峰林学士文集』がある。また、旅行雑誌などによくつかわれている『日本三景』という言葉があるが、これは鵞峰が1643年に『日本国事跡考』の一節に松島・天橋立・厳島(宮島)を「三処奇観」であると書いたことから起因して発生した言葉の一種で、鵞峰は様々な形で日本とかかわっていたことを物語っている。(柴咲らんど)

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2007年5月31日 (木)

今日は何の日文学者たち

 吉岡 実(よしおか みのる、詩人、男性、日本人、1919年(大正8年)4月15日-1990年(平成2年)5月31日没、71歳)東京出身。ペンネームには「皚寧吉」などもある。東京本所生まれ。高等小学校を卒業後、医学出版社に奉公する。1940年、詩歌集『昏睡季節』、1941年、詩集『液体』を発表。戦後、筑摩書房に勤務。1959年、詩集『僧侶』で日本現代詩人会が主催する第9回H氏賞を受賞。1976年、『サフラン摘み』で第7回高見順賞を受賞。1984年、『薬玉』で第22回藤村記念歴程賞を受賞。作品は詩集『昏睡季節』『液体』『静物』『僧侶』『紡錘形』『静かな家』『神秘的な時代の詩』『サフラン摘み』『夏の宴』『ポール・クレーの食卓』『薬玉』『ムーンドロップ』『赤鴉』、歌集『魚藍』、句集『奴草』、詩選集『吉岡實詩集』『吉岡実詩集』、散文『「死児」という絵』『土方巽頌』『「死児」という絵』『うまやはし日記』『吉岡実散文抄――詩神が住まう場所』などがある。(柴咲らんど)

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2007年5月30日 (水)

今日は何の日文学者たち

ボリス レオニードヴィチ パステルナーク(Борис Леонидович Пастернак, Boris Leonidovich Pasternak,詩人、小説家、作家、ロシア人、1890年1月29日)―1960年5月30日(ユリウス暦表示))モスクワ出身。モスクワ大学、マールブルク大学で哲学を学び、1914年、詩集『雲の中の双生児』を発表。文筆活動は詩や散文の執筆から翻訳まで手広くこなした人物である。1957年、『ドクトル・ジバゴ』をイタリアで出版。1958年にノーベル文学賞の受賞者となるも受賞を辞退する。それには理由があり、長編小説『ドクトル・ジバゴ』のスウェーデンで行われる授賞式に出席すればロシアへの帰国を許可しないというソ連政府の強い圧力と警告に彼が屈したからだった。そして、彼はその2年後に亡くなる。その後、『ドクトル・ジバゴ』については1988年まで30年間に渡り発禁処分が解けることはなかった。『ドクトル・ジバゴ』の作品は、ロシア革命を背景に零落を余儀なくされる者たちの情景や姿をテーマに描いている。そんなことからとられた処置だが、1986年、ゴルバチョフ政権によるペレストロイカ・グラスノスチ政策(情報公開)によってロシア国内も変化をきたした。文学としての評価も正当に行なわれ、彼が辞退させられたノーベル文学賞も評価され、1989年に息子であるエフゲニーが代わって受け取ることが許可された。彼の作品がある意味において世にでたのである。最近では1957年にイタリアで出版されることになった『ドクトル・ジバゴ』は英米の情報機関の政治工作であったとする説が現れた。英日曜紙サンデー・タイムズによると東西冷戦下におけるソ連のイメージダウンを図ったというのである。同紙によると研究家のイワン・トルストイ氏が「ドクトル・ジバゴ」をめぐって、米中央情報局(CIA)が英情報機関と連携して作品の草稿を複写する工作に従事していたことを記した元CIA職員の手紙を発見したとされている。事実か、どうかは別として文学が政治工作に利用されるとは嘆かわしく思う。彼の他の作品は、1914年、詩集『Близнец в тучах, 1914年』 (雲の中の双生児)1922年、詩集『Сестра моя — жизнь, 1922年』(我が妹 人生)1926年、詩集『Девятьсот пятый год, 1926年』(1905)1931年『Спекторский, 1931年』(スペクトルスキー)1943年、詩集『На ранних поездах, 1943年』(早朝の列車にて)1953年、翻訳『ファウスト』『シェークスピア戯曲集』などがある。(柴咲らんど)

井上 光晴(いのうえ みつはる、小説家、男性、1926年5月15日-1992年5月30日没、享年66歳)福岡県出身。福岡県久留米市(自筆年譜では、旧満州旅順に生まれ、4歳に帰国)に生まれたとされている。戦時中に国家主義思想であったが、戦後日本共産党に入党している。1950年共産党の細胞活動の内情を描いた『書かれざる一章』を「新日本文学」に発表。党指導部より批判され、党を除名される。1958年、戦争中の青年の姿を描いた『ガダルカナル戦詩集』を発表。このころから社会派的な作風が少し出てきていて、その後、被爆者や被差別部落の問題を取り上げた『虚構のクレーン』を発表。太平洋戦争における学徒兵らを描いた『死者の時』などを執筆した。佐世保の崎戸炭鉱で働いていたときには、朝鮮人の独立を扇動したとして警察に逮捕された前歴もある。作品は、『地の群れ』『虚構のクレーン』『死者の時』『他国の死』『荒廃の夏』『黒い森林』『階級』『胸の木槌にしたがえ』『眼の皮膚』『明日』『丸山蘭水楼の遊女たち』などがある。(柴咲らんど)

ヴォルテールVoltaire,哲学者、思想家、劇作家、作家、フランス人、1694年11月21日-1778年5月30日)啓蒙主義者。本名はフランソワ・マリ・アルエ (François-Marie Arouet)である。彼は5人の子供の末っ子としてパリに生まれ、パリで教育を受け語学ではラテン・ギリシア語、そして、イタリア語、スペイン語、英語などが堪能で、1711年から1713年の2年間は法律の勉強をしています。学校を卒業した後、彼は法律事務所で少し働いていますが、内心は当時から文学に専念したかったようです。彼は青年期に作品喜劇『オイディプス(1718)』がオルレアン公を諷刺したということからバスチーユ監獄に11ヶ月もの期間入れられます。収監中に彼のペンネーム「ヴォルテール」で『Oedipe』を書きます。そして、1726年に力を持っていた若い貴族(貴公子)のシェヴァリエ・ロハン(Chevalier De Rohan)を侮辱したという罪で、今度は監禁または追放という刑がくだされ、彼は追放を選び1726年から1929年までイギリスで暮らすことになります。その時、数学者・科学者であったイサック・ニュートンやジョン・ロックの考え方・哲学に興味を抱き、英国の立憲君主主義や宗教的寛容と社会について研究したようです。特に、時間における哲学的な意味での合理主義ならびに自然科学主義的な背景にたった哲学に興味を持って考えたようです。そして、パリへ戻ると英語圏における習慣や慣習などを賞賛する本を発表し、それが、またフランス政府から政権の批判と判断され、1734年に再びパリを去ることを強いられます。以後も彼は純粋に哲学の道を走り続け、1759年にはフランスとスイスの国境近くのフェルネ(Ferney)と呼ばれる地区に住み、宗教の不寛容と迫害を問き、批評を続けています。そのようなことから、彼はパリで亡くなったとき、教会は彼を批判のためか、教会グラウンドの埋葬を与えなかったという説が残っています。そのため、彼はシャンパーニュの僧院で最後に埋められ、1791年に一部をパリのパンテオンの休息所に移動したとのことです。また、1814年「ウルトラ」(右翼宗教団体)のグループが彼の残りを盗んで、ゴミ山に捨てたとする事件も起こったという説もあります。文学を通して貴族社会や教会、権力を痛烈に非難・攻撃し、ディドロらの百科全書派の運動を支持しながら、フランスがフランス革命に大きく向かう活躍を続けた哲学者・思想家として忘れてはいけない人物かも知れません。作品は、ドイツの哲学者ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz's )の "metaphysical optimism." (形而上の楽観論)を非難したCandide』などがあります。当時、18世紀のフランスにおいて、1731年には76人の公式検閲官がいたとする者たちが政府の許可なしで出版された本を焼いていたらしく、彼の本も相当焼かれています。そんな時代背景の中、彼やフランスの一部の作家たちはアムステルダムやジュネーブで印刷したものをフランスへ密輸入したりと、色々とフランス文学を通して権力と戦ったようです。そんなことを思うと、なぜか、逞しく思うのは私だけでしょうか。(柴咲らんど) 

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2007年5月29日 (火)

今日は何の日文学者たち

与謝野 晶子(よさの あきこ、歌人、思想家、作家、女性、日本人、1878年12月7日-1942年5月29日没、65歳)大阪府出身。旧姓は鳳(ほう)志ようで戸籍名は「志よう」である。ペンネームは「志よう(しょう)」から「晶」としたといわれている。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)である。なお、戦後の漢字制限にて「與謝野晶子」から「与謝野晶子」と改め、表記されるようになった。彼女は大阪府堺市(現在の堺市堺区)甲斐町で、老舗であった大阪・堺の羊羹で有名な和菓子屋「駿河屋」の父・鳳宗七、母・津祢の3女として生まれている。堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始めるなど文才の片鱗をみせ、日本における古典に興味を示し始めている。日本文学に親しみを感じながら、鳳晶子(しょうこ)などのペンネームで歌をつくり、20歳ころには和歌の投稿を始めている。1900年(明治33年)、大阪に来た与謝野鉄幹(本名・与謝野寛)と知り合い、恋に落ち、大阪・堺にある浜寺の海岸(「高師の浜」)をデートしたことで有名である。彼女は知り合った翌年には鉄幹と結婚するため、上京している。そして、翌1901(明治34)年に『みだれ髪』を与謝野鉄幹の協力も仰ぎながら出版し、鉄幹と結婚している。結婚前に発表した作品『みだれ髪』は、彼女が鉄幹へのあふれんばかりの愛をみずみずしく描いたものとして、当時の若者の心をとらえ若い世代の圧倒的な支持を受けた。ただ、与謝野鉄幹との結婚については、実はそう簡単ではなかった。鉄幹は京都府岡崎(現・京都市左京区)の僧侶・与謝野礼厳の4男として生まれながら山口県徳山市(現:周南市)の徳山女学校で国語教師として教壇に立ったときに女子生徒であった林滝野と問題を起こすなどして退職に追い込まれ、その後、林滝野と同棲し、一子(萃(あつむ))をもうけていたが既婚者だったからである。鉄幹と若手女流歌人・晶子との不倫は文藝界でも問題視され、誹謗中傷など晶子を鉄幹が離婚するまでは色々と苦労したようである。しかし、晶子は結婚後は11人(光、秀、八峰、七瀬、麟、佐保子、宇智子、アウギュスト、エレンヌ、健、藤子)の子宝に恵まれている。余談だが、鉄幹と離婚した滝野ものちに、詩人・歌人である正富汪洋(まさとみ おうよう:尾上柴舟や若山牧水らと「車前草社」を結成し、短歌の革新を図った人物で大正7年『新進詩人』を創刊、晩年には日本詩人クラブを結成、近代詩発展のために尽力した人物)と結婚している。与謝野晶子はまた、家業の和菓子商を継いだ弟(鳳(ほう)籌(ちゅう)三郎)が半年前に召集されたことを嘆いて歌った日露戦争当時の女性の立場を反戦の感情を表わした作品を与謝野鉄幹が創刊した『明星』に1904年(明治37年)9月に『君死にたもうことなかれ』(1連:ああ、弟(をとうと)よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば 親のなさけは勝(まさ)りしも、親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せと教(をし)へしや、人を殺して死ねよとて 24までをそだてしや。/2連:堺の街のあきびとの、老舗(しにせ)をほこるあるじにて、親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ。旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、滅びずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり。/3連:君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね、互(かたみ)に人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉(ほまれ)とは、おおみこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。/4連:ああ、弟(をとうと)よ、戦ひに 君死にたまふことなかれ。過(す)ぎにし秋を父君(ぎみ)に おくれたまへる母君(ぎみ)は、嘆(なげ)きの中に、いたましく、我子(わがこ)を召され、家を守(も)り、安しと聞ける大御代(おおみよ)も 母のしら髪は増(ま)さりゆく。/5連:暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかに若き新妻(にいづま)を、君わするるや、思へるや、十月(とつき)も添(そ)はで別れたる 少女(をとめ)ごころを思ひみよ。この世ひとりの君ならで ああまた誰(たれ)をたのむべき、君死にたまふことなかれ。)として発表された。日本全土が戦意高揚している真っ只中であった時代に歌ったものとして、彼女の反戦歌として有名な作品である。1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に『山の動く日きたる』で始まる詩を寄稿した。そして、彼女は女性解放思想家としても有名になった。作品は源氏物語の全訳が出版されていて有名である。例えば、與謝野晶子訳の桐壺(きりつぼ)の冒頭は、「紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし 晶子 /どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった。夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった。唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる。今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた。父の大納言(だいなごん)はもう故人であった。母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。」のような感じの文体で訳されている。(柴咲らんど)

山際 淳司(やまぎわ じゅんじ、ノンフィクション作家、小説家、1948年7月29日-1995年5月29日没、46歳)神奈川県出身。ペンネームは「山際淳司」と本名の犬塚 進がある。神奈川県逗子市に生まれ、神奈川県立横須賀高等学校から中央大学法学部一部法律学科を卒業する。大学在学中に『別冊経済評論』1972年5月号に『高石ともやの歌(フォーク)と心(ハート)』と『言語と感性』の2本のルポを発表。『週刊サンケイ』に人物ルポや1980年発行の文藝春秋『Sports Graphic Number』創刊号に、『江夏の21球』などの執筆を行なっている。『江夏の21球』は好評で作品集『スローカーブを、もう一球』で、1981年に第8回角川書店日本ノンフィクション賞を受賞する。1994年4月からはNHKの『サンデースポーツ』のメインキャスターを勤める。アサヒビールの「スーパードライ」等いくつかのCMにも起用された。「サンデースポーツ」のキャスターを降板した直後に亡くなった。作品は、スローカーブをもう一球、ナックル・ボ-ルを風に―スポ-ツをめぐる14の物語、逃げろボクサー、阪神タイガ-ス―プロ野球グラフィティ、山男たちの死に方―雪煙の彼方に何があるか 遭難ドキュメント、ダグアウトの25人、ベ-スボ-ル・スケッチブック―24のプロ野球物語、夏の終りにオフサイド、いつかまた、プレイボ-ル、野球雲の見える日、ルーキー ―もう一つの清原和博物語、そして今夜もエ-スが笑う、バットマンに栄冠を、挑戦と栄光と昭和スポ-ツ史・64の激闘譜、真夜中のスポ-ツライタ-、スタジアムで会おう、彼らの夏 ぼくらの声―Sport Stories、風たちの伝説、みんな山が大好きだった、最後の夏一九七三年巨人・阪神戦放浪記、北北東の風 マイナス三度、海へ、ボブスレー、リングロ-ド9、気まぐれにフリ-スロウ、ニュ-ヨ-クは笑わない、リヴァプ-ル・キャッツの冒険、ゴルファ-は眠れない、イエロ-・サブマリン、などの多数ある。(柴咲らんど) 

矢川 澄子(やがわ すみこ、作家、詩人、女性、1930年(昭和5年)7月27日-2002年5月29日)東京出身。東京目白に生まれで世田谷に育つ。東京都豊島区立旧高田第五小学校(現在の目白小学校)から旧制の東京都立高等女学校を5年で卒業。1951年(昭和26年)旧制の東京女子大学英文学科(3年制)を卒業。1954年、岩波書店の社外校正者を経て新制学習院大学英文学科3年次に編入学し、のち独文科に転入。同人誌「未定」にも参加。1955年、学習院大学の独文学科を卒業。1958年、東京大学文学部美学美術史学科に学士入学するが中退。1959年1月、澁澤龍彦と結婚。鎌倉市小町に住居を構える。1966年(昭和41年)8月、新居を構えて鎌倉市山ノ内へ転居。同年、澁澤訳『O嬢の物語』(ポーリーヌ・レアージュ)が刊行となる。この年は、グスタフ・ルネ・ホッケ作『迷宮としての世界』を種村季弘との共訳でも美術出版社から上梓。1968年(昭和43年)4月、澁澤と協議離婚成立。1969年以降は英仏独の翻訳家として活躍する。1980年(昭和55年)、信州黒姫(長野県上水内郡信濃町)に転居。1989年から日本ファンタジーノベル大賞の選考委員となる。翻訳作品では、『ラ・タ・タ・タムちいさな機関車のふしぎな物語』ペーター・ニクル、ビネッテ・シュレーダー。『若草物語』 L.M. オールコット、Louisa M. AlcottTasha Tudor。『鏡の国のアリス』ルイス キャロル、Lewis Carroll。『にいさんといもうと』シャーロット・シャピーロ ゾロトウ。矢川 澄子、 メアリ チャルマーズ。『ハイジ』 J. シュピーリ、Johanna SpyriPaul Hey。『美女と野獣』ローズマリー・ハリス、エロール・ル・カイン。『魔法の学校エンデのメルヒェン集』ミヒャエル・エンデ。『ハメルンの笛ふき』 ロバート・ブラウニング、ケート・グリーナウェイ。『キスなんてだいきらい』トミー・ウンゲラー。『賢者のおくりもの』オー・ヘンリー、リスベート・ツヴェルガー。『いちばんぼしみつけた』シンシア・ミッチェル。『長ぐつをはいたねこ』シャルルペロー、Charles PerraultHans Fischer。『ババールのしんこんりょこう』ジャン・ド・ブリュノフ。『いつかはきっと』シャーロット・ゾロトフ、アーノルド・ローベル。『トンデモネズミ大活躍』ポール・ギャリコ。など他多数あり。(柴咲らんど)

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2007年5月28日 (月)

今日は何の日文学者たち

アン ブロンテ(Anne Brontë (IPA: [bɹɒntɪ]) , 小説家、女性、イギリス人、1820年1月17日-1849年5月28日)ペンネームは、アクトン・ベル (Acton Bell) という。ヨークシャーのソーントンに生まれた。作品は、Poems by Currer, Ellis and Acton Bell (1846) 』(カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集)、『Agnes Grey (1847)』(アグネス・グレー)、The Tenant of Wildfell Hall (1848)』(ワイルドフェル屋敷の人々)などがある。(柴咲らんど)

堀 辰雄(ほり たつお、作家、男性、日本人、1904年(明治37年)12月28日-1953年(昭和28年)5月28日)東京都出身。東京で生まれて向島で育ち、府立三中を卒業。第一高等学校へ入学し、神西清、室生犀星、芥川龍之介と知り合う。ある説では有るが1923年(大正12年:当時19歳)に彼は数学者を目指していたが、萩原朔太郎の「青猫」に感銘を受け、文学に興味を持ち夏に室生犀星を訪ねて軽井沢を訪問し、以後、室生犀星を通じて芥川龍之介らと文壇メンバーと知り合いになったようである。また、東京帝国大学文学部の国文科に在籍中は、中野重治や窪川鶴次郎たちとも交流し、小林秀雄、永井龍男らの同人誌にも興味を示している。1926年、中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊にこぎつける。そして、1930年『聖家族』で作家デビュー。当時すでに彼は肺が病に侵されていた。そして、軽井沢に作品の創作拠点を移している。彼は病と闘いながら1933年(昭和8年)『美しい村』などを書き続けた。1934年、病をおして矢野綾子と婚約にいたるが、彼同様、綾子も肺を病んでおり、翌年、1935年に一緒に八ヶ岳山麓にある富士見高原療養所に入院。しかし、綾子はその冬に亡くなる。その体験をテーマにした作品が彼の代表作として知られる『風立ちぬ』である。ただし、『風立ちぬ』は、ポール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valery)の『海辺の墓地』を引用した作品であると知られている。彼自身、『風立ちぬ』の冒頭文(それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色(あかねいろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……  そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。風立ちぬ、いざ生きめやも。――)とあるが、その文の前に、"Le vent se lève, il faut tenter de vivre."PAUL VALÉRY“と書いている。作品としては『菜穂子』『かげろふの日記』『大和路・信濃路』『美しい村』『風立ちぬ』『かげろふの日記』『曠野』などが有名な彼の作品である。(柴咲らんど)

 永井 準(ながいじゅん、放送作家、男性、日本人、1949年3月28日―2006年5月28日没、57歳)東京出身。本名は準一郎(じゅんいちろう)という。萩本欽一の座付き作家グループ「パジャマ党」の放送作家のメンバー。「欽ちゃんのどこまでやるの!」「笑っていいとも!」「SMAP×SMAP」などに構成作家として立ち上げから関与した放送作家であり、放送業界に多大な貢献をした人物である。(柴咲らんど)

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2007年5月27日 (日)

今日は何の日文学者たち

長谷川 町子(はせがわ まちこ、漫画家、女性、日本人、1920年(大正9年)1月30日-1992年(平成4年)5月27日)佐賀県多久市出身。聖公会のクリスチャンで生涯独身。旧制山脇高等女学校(現・山脇学園短期大学)を卒業。デビュー作は『狸のお面』とされている。代表作に主人公が子持ち若妻の『フグ田サザエ』の呼び名で有名な『サザエさん』や、青島幸男主演のテレビドラマで有名になった『いじわるばあさん』などがある。日本で始めての女性のプロの漫画家となる切っかけは、彼女が旧制山脇高等女学校に在籍中に漫画家で落語作家でもあった『のらくろ』を書いていた田河水泡に師事したことから始まる。もともと画家を志していたようなので画才があり、終戦を迎えたとはいえ疎開していた福岡で暮らしていた彼女は、1946年(昭和21年)4月22日に福岡にある地方紙『夕刊フクニチ』の夕刊に漫画の連載を開始することになる。それが、浜辺を散歩しているときに構想が浮かんだとされている『サザエさん』だったのです。妹さんと一緒に毎日海岸を散歩しながら構想を練ったので、どうしても頭に浮かんだ登場人物が、みんな海産物の名前になったということも面白い話です。その掲載の依頼のあった作品『サザエさん』を新聞の4コマ漫画で登場させると一躍人気をよび、またたくうちに彼女は有名漫画家になります。そして、東京の桜新町へ引っ越しをするためなのか、そこの真意は私にはわかりませんが『サザエさん』の連載をサザエさんとマスオさんの結婚という話の結末をつけて突然終了させ、一旦、『夕刊フクニチ』の連載を同年8月22日で終了させています。そして、彼女の一家は上京し、再び『夕刊フクニチ』に『サザエさん』の連載を翌年、1947年(昭和22年)1月3日に開始しています。その連載再開については彼女は考えていなかったとする説もあり、連載にあたって最終回に書いたフグ田マスオのタッチを福岡まで縮刷版をみせてもらいに戻ったとする説もあるぐらいです。そして、いよいよサザエさんの舞台が東京に移り、東京都世田谷区の東急田園都市線桜新町駅(現長谷川町子美術館付近)で展開されます。諸般の事由からこれも同年5月8日に連載終了をします。1947年10月25日に『夕刊フクニチ』紙上に連載を再開し、同年11月5日にまたもや連載を終了。1948年2月6日に『夕刊フクニチ』紙上に連載再開、同年6月21日に連載を終了。1948年3月に『漫画少年』誌上に連載を開始。1948年11月17日に『夕刊フクニチ』紙上に連載を再開、1949年4月4日に連載を終了。平行して、1948年11月21日に『新夕刊』紙上に連載を開始し、1949年4月2日に連載を終了。そして、1948年11月21日に『新夕刊』紙上に連載を開始、1949年4月2日に連載終了。 1949年12月1日に『夕刊朝日新聞』紙上に連載開始、1950年12月31日に連載に連載を終了。1951年(昭和26年)4月16日に『朝日新聞』(朝刊)紙上に連載開始、1960年4月に連載を休止。1957年1月に『若い女性』誌上にて連載を開始、1959年1月に連載を終了。1961年10月15日に『朝日新聞』(朝刊)紙上に連載を再開、1974年2月21日に事実上連載を終了し、「フジ三太郎」にバトンタッチした。その間、1944年(昭和19年)に西日本新聞社の編集局に入社。1946年(昭和21年)から『サザエさん』を書き始め、1974年(昭和49年)に連載を終えるまで通算6477回25908コマの作品を書き上げ、朝日新聞の掲載分だけでも25年間の長期連載をなしとげたすばらしい漫画家である。最後に『サザエさん』の本ですが、現在は連載をしていた朝日新聞から『全集』が刊行されていますが、やっぱり「姉妹社」の『サザエさん』の本は一味違うというマニアの方も多いようです。姉妹で設立した会社「姉妹社」で長谷川町子作品をずっと出版を続けていたというのも色々と面白い話があったようです。ご存知の方もおられるでしょうが『サザエさん』の1巻と2巻は絵本の定形外の大きさになっています。そもそもがここから始まる話です。ある時、長谷川家では『サザエさん』を自費出版に近い形で出版しようと思いつき、思うに任せて、本を制作します。当時彼女らは本屋さんの取引システムを知らず、1巻目を一流大手取次店に持参したのです。その時、問題もなく、すっと受け取ってもらえたことから2巻目も製本し気をよくしていました。そこに1巻目に納品した大量の本が、サイズが横長の変形版であったために書店の本棚に並べにいという理由もあってか、大量に本が返本されてきたのです。そして、取次店から2巻目は扱わないとまで通告されてしまいます。当時の彼女たちにとっては大変なことで、1巻の返本の山と2巻の未出荷本の山を前にして困ったそうです。町子さんと姉の毬子さんはお母さんのアドバイスを受け、借金をして3巻目を普通のサイズで作り、姉妹は勝負にでます。取次店が扱ってくれないことから、重い本の荷物を抱えて毎日、毎日、直接本屋さんを巡って売り込みにまわったのです。苦労のかいがあって、時間が経つにつれポツポツと本屋さんからも追加が来るようになり、サイズの異なる1巻や2巻も扱ってくれるお店もあらわれ家にあった沢山の本の山は小さくなっていきました。こんなことがあってから、姉妹は大手の出版社からの誘いにも乗らず、姉妹で設立した「姉妹社」から長谷川町子の作品をずっとずっと出版し続けたのです。そんな、エピソードが「姉妹社」にはあります。様々な考え方があるでしょうが、私はただ「姉妹社」の本は古いというだけではなく、本の中には姉妹で運んだ本があると思うだけで夢が膨らみ違った感覚がわいてきます。また、『サザエさん』はTVでも放送され人気を得ています。『サザエさん』(歌詞・林春生、作曲・筒美京平:お魚くわえたどら猫 追っかけて はだしでかけてく 陽気なサザエさん みんなが笑ってる お日さまも笑ってる ルルルルルル 今日もいい天気/ 子供を集めて広場で 草野球 打っても投げても 元気なサザエさん みんなが笑ってる 青空も笑ってる ルルルルルル 今日もいい天気 / 買物しようと町まで 出かけたが 財布を忘れて 愉快なサザエさん みんなが笑ってる 子犬も笑ってる ルルルルルル 今日もいい天気/ 明るい笑顔に幸せが ついてくる 楽しい仲間と 陽気なサザエさん みんなが笑ってる 夕焼けも笑ってる ルルルルルル あしたもいい天気)の歌がテレビから流れ、休日を覚える方も多いと思います。あの画面から流れるサザエ:加藤みどり(初)、マスオ:近石真介(初)・増岡弘(2)、カツオ:大山のぶ代(初)・高橋和枝(2)・冨永みーな(3)、ワカメ:山本嘉子(初)・野村道子(2)・津村まこと(3)、タラオ:貴家堂子(初)、波平・永井一郎(初)、フネ:麻生美代子(初)、ノリスケ:村越伊知郎(初)・荒川太郎(2)・松本保典(3)、タイ子:恵比寿まさこ・塚田恵美子(2)、イクラ:桂玲子(初)、伊佐坂:峰恵研(初)・岩田安生(2)、かる:山田礼子(初)、ウキエ:潘恵子(初)・冨永みーな(2)・川崎恵理子(3)、じん六:竹村拓(初)、中島:白川澄子(初)、カオリ:桂玲子(初)、早川:川崎恵理子(初)、花沢:山本圭子(初)、アナゴ:若本規夫(初)、リカちゃん:桂玲子(初))がTV画面から流れてくるとホッとしたりもします。『いじわるばあさん』については、雑誌のサンデー毎日に1966年1月2日号から1971年7月18日号まで連載された4コマ漫画で、意地悪なおじいさんを主人公とした作品です。青島幸男主演の実写版のテレビドラマがあまりにも印象強く残っている方も多いと思います。(柴咲らんど)

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2007年5月26日 (土)

今日は何の日文学者たち

藤森 成吉(ふじもり せいきち、劇作家、小説家、作家、男性、日本人、1892年(明治25年)8月28日-1977年(昭和52年)5月26日)長野県出身。彼は長野県諏訪郡上諏訪町角間生れる。妻は岡倉由三郎(ヨシサブロウ)の長女のぶ子である。3歳の時に母が自殺。継母に育てられながら、諏訪中学校を卒業。第一高等学校の独法科を卒業。1916年(大正5年)、東京大学の独文科を卒業するが、在籍中に書いた『波』が作家デビューの作品となる。劇作『何が彼女をさうさせたか』や歴史小説『渡辺崋山』などを以降に書き上げていく。1930年から2年間(昭和5年から昭和7年)に渡欧するが、プロレタリア作家同盟の主要メンバーであったことから要注意人物としてマークされ、日本に帰国と同時に検挙され、その後、思想的な運動はひかえることとなる。『何が彼女をそうさせたか』は映画化(製作=帝国キネマ演芸・長瀬撮影所、1930.02.06 常盤座10 3,019m 146分 白黒 パートトーキー、 監督・鈴木重吉、撮影・塚越成治、配役:中村すみ子・高津慶子、琵琶師長谷川旭光・藤間林太郎、阪本佐平・小島洋々、養育院人事院原・牧英勝、曲芸団長小川鉄蔵・浜田格、すみ子の伯父山田勘太・浅野節、山下巡査部長・大野三郎、質屋の主人・中村翫暁、玉井老人・片岡好右衛門、市川新太郎・海野龍人、県会議員秋山秀子・海野龍人、県会議員秋山秀子・二條玉子、山田の女房お定・園千枝子、天使園主矢沢梅子・尾崎静子、島村おかく・間英子)された。また、『幡随院長兵衛』も映画化(製作:南旺映画・前進座、1940.05.29 日本劇場、8 2,222m 81分 白黒 、演出・千葉泰樹、脚色・山本嘉次郎 吉田二三夫、撮影・中井朝一、音楽・深井史郎、美術・小池一美、録音・橋本要、照明・服部脩、配役:松平伊豆守信綱・汐見洋、斎藤左近兵衛・嵐芳三郎、斎藤左近兵衛・河原崎長十郎、女房お金・山岸しづ江、坂部三十郎・坂東調右衛門、水野十郎左衛門・中村翫右衛門、甲々爪甲斐守真澄・助高屋助蔵、由井正雪・千田是也)された。(柴咲らんど)

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2007年5月25日 (金)

今日は何の日文学者たち

 ラファイエット夫人Madame de La Fayette、作家、女性、フランス人、伯爵夫人マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayetteが正式名、1634年3月18日(洗礼日)-1693年5月25日フランスはパリの下級貴族の家庭で生まれた。父親のマーク(Marc Pioche de la Vergneを15歳のときに亡くし、翌年、彼女の母親はセヴィニェ(Sevigneと結婚する。彼女はそして、オーストリアのアン王女の侍女としてつかえることになり、そこで、イタリア語やラテン語を習います。そして、で、20歳になると、彼女は自分より18歳年上のオーヴェルニュのラファイエット伯Comte de La Fayetteと結婚し、2人の息子を授かります。少女時代からサロンの花形だった彼女は、結婚を機に知人から、主人であったラファイエット伯に、将来の公爵夫人となる英国のヘンリエッタら数人から彼女に伝記を書いてくれるように依頼をうけるようになる。作品には『クレーヴの奥方』『クレーヴ夫人の恋』などがある。代表作はなんといっても『Princesse de Cl?ves,』である。この作品は歴史的に見た場合において古典的なもっとも初期的な心理小説といわれている。ヨーロッパで書かれた最初の小説のうちの1つとされるフランス小説である。文学における彼女独自の一分野を開花させた作品である。現に何人かの文学史研究家はこの作品を最初の近代小説と呼んでいる。作品は散文形式の小説で、1678年3月に匿名で出版され、フランスのヘンリ2世の王室裁判などを背景にその時代を描きながら、主人公以外のほぼすべての登場人物を歴史的にみて忠実に描写し、その中における事件の陰謀やその周囲にうずまく人物の心理を描いている。(柴咲らんど)

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2007年5月24日 (木)

今日は何の日文学者たち

江崎 誠致(えざき まさのり、作家、1922年1月21日―2001年5月24日福岡県出身。福岡県久留米市に生まれる。明善中学を卒業後、出版社小山書店に入社。その後、昭和18年、ルソン島へ出征する。昭和21年に復員し、再び小山書店に勤める。昭和30年に胸を患い喀血、療養生活に入る。昭和32年4月に作品『ルソンの谷間』を発表。同年、6月に作品『肺外科』を発表し出版。同年、7月に作品『ルソンの谷間』で直木賞を受賞する。以後、作家活動に専念し、囲碁の愛好家であったことから囲碁に関する著作を含めた多数の作品を世にだした。作品は、『人物日本剣豪伝〈2〉小野次郎右衛門・宮本武蔵ほか』『大阪城―物語・日本の名城』『らんか帖―ヘソ曲りで生きよう』『宇宙に遊ぶ―わが囲碁史』『囲碁放浪記―懸賞打ち』『昭和の碁』『賭碁放浪記懸賞打ち』『碁悦同衆』『呉清源』『石の鼓動』『賭碁放浪記続懸賞打ち』『女弟子』『盤側の風雪』『目碁の館』『昭和の碁『改訂版』『名人碁所』『盤上盤外の記江崎誠致の碁の本1』『碁の博物誌江崎誠致の碁の本2』『棋士の勲章江崎誠致の碁の本3』『ここ一番に勝つ生き方』『碁悦同衆』『宇宙に遊ぶわが囲碁史』などがある。(柴咲らんど)

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2007年5月23日 (水)

今日は何の日文学者たち

ヘンリック・イプセンHenrik Johan Ibsen劇作家、ノルウェー人、1828年3月20日-1906年5月23日)近代演劇の創始者的な存在であり、当時の19世紀最後の四半世紀におけるヨーロッパで展開された近代劇運動の旗頭といわれている。代表作は、『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがある。彼はノルウェーの最高額面の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれた時期もあった。作品をあげると、『Catilina 』(カティリーナ)1850年、『Kjæmpehøjen 』(勇士の塚)1850年、『Sancthansnatten』(聖ヨハネ祭の夜)1852年、『Fru Inger til Østeraad 』(エストロートのインゲル夫人)1854年、『Gildet paa Solhoug 』(ソールハウグの宴)1855年、『Olaf Liljekrans』(オーラフ・リッレクランス)1856年、『Hærmændene paa Helgeland』(ヘルゲランの勇士たち)1857年、『Kjærlighedens Komedie』(愛の喜劇)1862年、『Kongs-Emnerne』(王位継承者)1863年、『Brand』(ブランド)1865年、『Peer Gynt』(ペール・ギュント)1867年、『De unges Forbund』(青年同盟)1869年、『Kejser og Galilæer』(皇帝とガリラヤ人)1873年、『Samfundets støtter』(社会の柱)1877年、『Et dukkehjem』(人形の家)1879年、『Gengangere』(幽霊)1881年、『En Folkefiende』(民衆の敵)1882年、『Vildanden』(野鴨)1884年、『Rosmersholm 』(ロスメルスホルム)1886年、『Fruen fra havet』(海の夫人)1888年、『Hedda Gabler』(ヘッダ・ガーブレル)1890年、『Bygmester Solness 』(棟梁ソルネス)1892年、『Lille Eyolf』(小さなエヨルフ)1894年、『John Gabriel Borkman』(ヨーン・ガブリエル・ボルクマン)1896年、『Når vi døde vågner』(わたしたち死んだものが目覚めたら)1899年、などがある。(柴咲らんど) 

佐瀬 稔させ みのる、ノンフィクション作家、男性日本人、1932年6月21日―1998年5月23日神奈川県出身。作風はノンフィクション作家らしい膨大な資料集をおこない、その中から真実と真理をさぐるものである。単に事件を興味本位に描くのではなく、といって自分の意見を述べるものでい微妙なところがすばらし。山岳に関するものでは、1980年の作品『狼は帰らず・アルピニスト森田勝の生と死』(谷川岳、アイガー、エベレスト、K2、グランド・ジョラスなどの岩壁に挑み続けたクライマー森田勝の生涯を描いた作品)、1982年の作品『喪われた岩壁・第2次RCCの青春群像』(戦中・戦後を通し、豊かとはいえない生活の中で思うように山へは行けなかった男たちの青春を描いている。山を愛した奥山章を旗頭に長越成雄(安川茂雄)、円山雅也、そしてそこに集う若手クライマー、吉尾弘、芳野満彦、湯浅道男、松本龍雄らの第2次RCCという組織の生き様を描いた作品で、戦後の日本におけるアルピニズムを理解するうえでは必読書といわれている)、1990年の作品『ヒマラヤを駆け抜けた男・山田昇の青春譜』(1985年に世界最高峰のエベレスト、第2位のK2、そして厳冬のマナスルに連続登頂し八千メートル峰に12回登頂するといった快記録をうち立てた登山家山田登。1989年冬、8000m14座完登を目前に9座にしてマッキンリーに眠る。8000m峰に年に3回登頂するといったハットトリックを2度も成し遂げた男、わが国最高峰の位置に君臨した登山家の1人であった山田昇。その生涯を描き、彼がトライした壮絶な高所登山の実態をも描いた、ドキュメント作品)、1994年の作品『長谷川恒男・虚空の登攀者』(アルプス三大北壁冬期単独登攀を成し遂げた長谷川恒男。生涯、夢を追い続け、ヒマラヤにこだわった。1991年1010日パキスタン・ウルタル峰登山中、雪崩により遭難。享年43歳。そんな長谷川恒男の壮絶なクライマーとして男の伝記である)、1999年の作品『残された山靴・~志なかばで逝った8人の登山家の最後~』(「佐瀬稔遺稿集」でもあるこの作品は、植村直己、小西政継、加藤保男、のような有名な登山家や冒険家だけはなく、難波康子、山崎彰人らというマスコミ上は有名でなかった山を愛し続けたた者たちにもスポットライトをあてた伝記集である)などがある。他には、『金属バット殺人事件』(1980年(昭和55年)、川崎市にある新興住宅地に住む一家を突然襲った惨劇事件を描いた作品。浪人中の次男が両親を金属バットで殴り殺す事件を丹念な取材と、緻密な構成で事件の全容に迫って描いている作品)、『祖国よ!―佐瀬稔の昭和事件史』(戦時中の満州で何があったのか。巣鴨プリズンの妖怪とは。炎のホテル・ニュージャパン、「よど号」元機長など、昭和という時代の中で風化させてはいけない事件を鋭い視点から描いた作品)など、多数ある。中に訳として名前があがっている作品もある。それは『検死官 Dr.刑事トーマス野口』( トーマス野口/著、ジョセフ・ディモーナ/著、佐瀬稔/訳、講談社、19845月)である。このトーマス野口(Thomas Noguchi)はアメリカの日本人医師で福岡県に生まれ日本医科大学を卒業後、1952年に単身渡米し、ヨーバ・リンダ大学で臨床・解剖病理学を専攻、助教授となり、1962年にはロサンゼルス検死局局長まで勤めた人物である。なぜ、この場で紹介するかといいますと、ロサンゼルス検死局局長となった年に『マリリン・モンロー』の検死をおこなったことで有名だからである。3時間にもおよぶ死体解剖にあたったにもかかわらず、その時点の検死のあり方について今も色々なことがいわれている。1962年8月5日、ロサンジェルスのブレントウッドにある家でマリリン・モンローは彼女のハウスキーパーによって発見される。その後、マリリンの死因は睡眠薬の過剰服用とされます。そこで疑問がわいてきます。通常は検死報告書をもって死因を決定付けるのですがマスコミなどで書きたてた死因が睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で自殺説も飛び交う中、マリリンの赤い手帳が見当たらないこと、発見時に受話器を握っていたにもかかわらず通話記録がないこと、そして、トーマス野口が中毒とされた睡眠薬のバルビツール酸系のバルビタール (Barbital) または バルビトンの小腸における残存・残留検証をしなかったことです。話はまた、いつものように脇道にそれました。再び、佐瀬 稔に戻りますと、『大塚正士の一日一得』なるビジネスの手引き的な『大塚製薬』に関する「うまいモノを作れば必ず売れる」と、一代で巨大企業を築き上げた人物・大塚正士の儲けるネタはどこにでも転がっている的、数々のベストセラー商品を生み出した鳴門商法から、独創的営業・宣伝戦略まで商いで大を成すための秘密が明かされている作品も書いている。ノンフィクションというジャンヌの奥の深さを考えさされる文学界に貢献した人物である。(柴咲らんど) 

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2007年5月22日 (火)

今日は何の日文学者たち

李良枝(イ・ヤンジ이양지、小説家、作家、女性、日本人(在日韓国人二世)、1955年3月15日-1992年5月22日)本名は田中淑枝。山梨県南都留郡西桂町に生まれる。両親が日本国籍を彼女が小学校のときに取得したので、国籍は日本。1973年(昭和48年)山梨県立吉田高等学校から京都府立鴨沂高等学校に編入。1980年5月、韓国に初めて行く。その後、何回も往来を繰り返す中、巫俗舞踊(ムソク)や伽耶琴(カヤグム)、語り歌(パンソリ)などに興味を覚える。1982年(昭和57年)、ソウル大学の国語国文学科へ留学。在籍中に書き上げた作品『ナビ・タリョン나비타령』を『群像』に発表し、第88回芥川賞候補となる。1983年には『かずきめ』、1984年には『刻』が(1984年)も芥川賞候補となった。1988年、ソウル大学を卒業。大学の卒業論文にあたる『パリコンジュ(捨て姫)とつながりの世界』の作品『由熙』(ユヒ、유희)で翌1989年(平成元年)に第100回芥川賞を受賞。在日韓国人の若い女性が、自らのルーツを尋ねて韓国に留学し、自分を求めてもがき苦しむ姿に自分自らを投影させ描いた作品であるといわれている。「群像」に掲載された『石の聲』の第一章が遺稿となった。有名な著述には、かきずめ』(講談社,1983)、『刻』(講談社,1985)、『由熙』(講談社,1989)、『石の聲』(講談社,1992)、『李良枝全集』(講談社,1993)などがある。(柴咲らんど) 

堤 幸子(つつみ さちこ、作家、女性、日本人、1932年10月27日-2003年5月22日)熊本県出身。共同ペンネーム桐生操(きりゅう・みさお)で執筆。フランスはパリで知り合った友人・上田加代子と日本に帰国後、共同ペンネーム桐生操で数々のノンフィクション作品を生みだした。作風は綿密な調査にうらづけられた資料を基に、中世など古いヨーロッパの生活や風俗や世情など歴史に秘められたエピソードをさまざまな形で紹介する。世界史に興味のある方には必見の書が多数ある。特に『本当は恐ろしいグリム童話』シリーズは好評である。桐生 操で、本当は恐ろしいグリム童話』『きれいなお城の怖い話―ドラキュラ公から青髯男爵まで』『きれいなお城の残酷な話―西洋悪女悪人譚』『きれいなお城の呪われた話―西洋歴史怪奇譚』『きれいなお城の不思議な話―西洋怪奇実話集』『きれいなお城の恐ろしい話―世界残虐人物譚』『きれいなお城の変身の物語―ヘビ女から狼男まで』『きれいなお城の怖い話』『きれいなお城の残酷な話ベスト版』『びっくり!世界史 無用の雑学知識―事実は教科書よりも奇なり?!』『びっくり!世界史 無用の雑学知識〈2〉舞台裏から見たもう一つの歴史』『びっくり!世界史 無用の雑学知識〈3〉誰も触れなかった歴史の真相』『世界史の謎がズバリ!わかる本―おかたい歴史書じゃ教えない〈創世紀~古代ローマ篇〉』『世界史の謎がズバリ!わかる本―おかたい歴史書じゃ教えない〈2 中世~ルネサンス編〉』『世界史の謎がズバリ!わかる本―おかたい歴史書じゃ教えない (3)』『風の王宮(はやさか あみい)』『禁じられた恋の物語―歴史のなかの華麗な女たち』『王妃アリエノール・ダキテーヌ―リチャード獅子王の母』『血まみれの中世王妃―イザボー・ド・バヴィエール』『血ぬられた法王一族―ダ・ヴィンチの名推理』『公妃ディアヌ・ド・ポワチエ―フランソワ一世の時代』『エリザベート・バートリ―血の伯爵夫人』『王妃カトリーヌ・ド・メディチ―サン・バルテルミー大虐殺の謎』『女王メアリ・ステュアート―美貌の悲劇・エリザベスの陰謀』『皇女アナスタシアは生きていたか』などの出版物がある。(柴咲らんど) 

ヴィクトル ユゴーVictor Hugo,詩人、小説家、男性、フランス人、1802年2月26日-1885年5月22日)カタカナ表記ではビクトル・ユゴーとも書く。フランス東部のブザンソンに生まれ文豪である。彼を述べる上で、特記すべきことはフランスロマン主義のことであろうと思う。日本におけるロマン主義もあるが、フランスロマン主義は社会的な背景の上になりたっていた知性や理性を根幹とする古典主義に相反するかたちで形成されたもので、彼はそれを強く推し進め、主張した人物で有名である。それは、戯曲『クロムウェル』の序文にもロマン主義の宣言ととれる部分があるからである。フランスロマン主義は想像と感受性を重んじ、自然を受け入れた宗教的でもあり、人間本来の感性に生きる姿を主張するものであることから、個人をも尊重するものであると主張したのである。彼の代表作といえる1862年に書かれた大河小説『Les Misérables』(レ・ミゼラブル)、日本語訳では『ああ無情』が彼におけるロマン主義フランス文学そのもののようです。内容はジャン・ヴァルジャンという主人公の生涯を描いた作品である。時代背景はルイ18世・シャルル10世の復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いた作品。ある日、パンを盗んだ罪で19年も服役していた主人公ジャン・ヴァルジャンが老いた司教のところをたずねる。司教は暖かく迎え入れのだが、ジャン・ヴァルジャンは銀の食器を盗んでしまう……。これ以上は、読まれる方のことを考えて書きませんが、ある意味、人の生きる道をといているような話である。映画も数多く製作されていて、原題はいずれも『Les Miserables』で、1925年にフランス(アンリ・フェスクール、ルイ・ナルパ監督・脚本、ガブリエル・ガブリオ主演)、1935年にアメリカ(リチャード・ボレスラウスキ監督、フレドリック・マーチ主演)、1957年にイタリア・フランス(ジャン・ポール・ル・シャノワ監督、ジャン・ギャバン主演)、1996年にフランス(クロード・ルルーシュ監督、ジャン・ポール・ベルモンド主演)、1998年にアメリカ(ビレ・アウグスト監督、リーアム・ニーソン主演)などがある。著述は、オードと雑詠集(Odes et Poésies Diverses)、 アン・ディスランド(Han d'Islande)、オード集(Nouvelles Odes)、ビッグ・ジャルガル(Bug-Jargal)、オードとバラード集(Odes et Ballades)、クロムウェル(Cromwell)、- 東方詩集(Les Orientales)、死刑囚最後の日(Le Dernier jour d'un condamn)、エルナニ(Hernani)ベルディの歌劇「エルナーニ」原作と、いわれている、 ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)、マリヨン・ドロルム(Marion Delorme)、秋の木の葉(Les Feuilles d'automne)、逸楽の王(Le Roi s'amuse) ベルディの歌劇「リゴレット」原作と、いわれている、リュクレス・ボルジャ(Lucrèce Borgia)、マリー・チュドール(Marie Tudor)、ミラボー研究(Étude sur Mirabeau)、文学哲学論集(Littérature et philosophie mêlées)、1834 - クロード・クー(Claude Gueux)、アンジェロ(Angelo)、たそがれの歌(Les Chants du crépuscule)、内心の声(Les Voix intérieures)、リュイ・ブラース(Ruy Blas)、光と影(Les Rayons et les ombres)、ライン河幻想紀行(Le Rhin)、ビュルグラーヴ(Les Burgraves)、小ナポレオン(Napoléon le Petit)、懲罰詩集(Les Châtiments)、Lettres à Louis Bonaparte、静観詩集 (Les Contemplations)、諸世紀伝記詩集(La Légende des siècles)、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)、街と森の歌(Les Chansons des rues et des bois)、海の労働者たち(Les Travailleurs de la Mer)、パリ(Paris-Guide)、笑う男(L'Homme qui rit)、恐るべき年(L'Année terrible)、記録と証言、亡命以前(Actes et paroles - Avant l'exil)、記録と証言、亡命中(Actes et paroles - Pendant l'exil)、記録と証言、亡命以後(Actes et paroles - Depuis l'exil)、諸世紀伝記詩集・第二巻La Légende des Siècles 2e série、よいお祖父さんぶり(L'Art d'être grand-père)、ある犯罪者の物語・第一部(Histoire d'un crime - 1re partie)、ある犯罪者の物語・第二部(Histoire d'un crime - 2e partie)、法王(Le Pape)、既成宗教と真の宗教(Religions and religion)、ろば(L'Âne)、精気の四風(Les Quatres vents de l'esprit)、トルクマダ(Torquemada)、諸世紀伝記詩集・第三巻(La Légende des siècles - Tome III)、イギリス海峡の群島(L'Archipel de la Manche)などがある。(柴咲らんど) 

 ジュール ルナールJules Renard, 詩人、劇作家、小説家、作家、男性、フランス人、1864年2月22日-1910年5月22日)小説『にんじん』は有名。作風は淡々としたと言葉をたくみに使いこなし、鋭い感性で様々な優れた作品を生み出した人物である。彼はフランス・マイエンヌのマイエンヌ村に生まれる。17歳の時にパリに出て高等師範学校を目指したが、挫折する。そんなとき、劇作家なることに興味を抱き、パリで創作活動を開始。作品『ばら』を自費出版する。1887年、兵役を済ませ23歳の時に倉庫会社に入社するが、すぐに解雇され、当時知り合いになったガルブラン夫妻から経済的な援助を受ける。1888年、『Crime de village(村の犯罪)を発表、24歳でマリー・モルノーと結婚。1889年に文芸雑誌『Mercure de France(メルキュール・ド・フランス)の創刊に尽力しながら、自分自身の多くの詩や物語、評論を掲載し、また、雑誌や新聞にも投稿を始める。すると、他の作家との交流も始まり、知名度が次第に高くなっていった。1892年、『根なしかずら』発表。1894年『Vigneron dans sa vigne(ぶどう畑のぶどう作り)、『Poil de Carotte(にんじん)を発表。1896年、『Histoires naturelles(博物誌)『愛人』をリリース。1897年の『Le plaisir de rompre(別れもたのし)の上演が大成功し好評を博し、有名になるが、父親が猟銃自殺。翌年、1898年に『Le plaisir de rompre(別れもたのし)を出版。1898年に『Le pain de ménage』『牧歌』などを出版。1909年『信心狂いの女』を発表。(柴咲らんど) 

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2007年5月21日 (月)

今日は何の日文学者たち

エレナ ホグマン ポーターEleanor Hodgman Porter、小説家、女性、アメリカ人、1868年12月19日-1920年5月21日没、享年52歳)アメリカ・ニューハンプシャー州リトルトン出身。彼女は高校を病気の為に中退し、自宅療養の後、ボストンのニューイングランド音楽院に入学し、歌唱の勉強などコンサートや教会聖歌隊で歌を歌ったりしている。1892年5月3日(当時24歳)、ビジネスマンのジョン・ポーターと結婚し、翌年、1893年に短編小説を書き、彼女の最初の収入が2.75ドルだったそうである。ただ、デビュー作(First Book)となると1907年の『Cross Currents appeared 』で、2作目が1908年の『Turn of the Tide dealt with Child labor』、3作目が1911年の『Miss Billy - three bachelors and the result of a woman entering their lives 』といわれている。そんな中でもっとも有名な本が1913年に発表された2年間ベストセラー・リストのトップを飾った『Pollyanna』である。結果として12言語での翻訳がなさている。日本では、フジテレビ系TV地上波の世界名作劇場シリーズの『愛少女ポリアンナ物語』(1986年1月5日から12月28日:1年間51回)が放送されたことで有名になった作品である。『少女パレアナ』『パレアナの青春』は1986年度に文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞、第4回日本アニメフェスティバル・アトム賞を受賞した。声の出演は、ポリアンナ・フィティアの声を堀江美都子、ポリアンナの父で牧師でもあるジョン・フィティアの声を田中秀幸、ポリアンナの母でジェニーの声を渡辺菜生子、ポリアンナの友達のカレンの声を工藤夕貴、ホワイトの声を阪脩、ホワイト夫人の声を寺島信子、パレー・ハリントンの声を野沢雅子が担当し、脚本を久貫千彩子、音楽を小六禮次郎、演出を楠葉宏三、オープニングテーマ第1部の歌「し・あ・わ・せカーニバル」を工藤夕貴(作詞・岩里祐穂 作曲・芹澤廣明 編曲・和泉一弥:涙はふこうよ くじけちゃダメだよ Dance! 素敵なカーニバル キミもキミも飛び出すのよ 悩むばかりじゃ No! No! No! 青い星のキャンドルライト 街が待っているわ 悲しみも 淋しさも じゃまさせない だから笑ってみようよ おしゃべりしようよ 踊ればキミも一人ぼっちじゃない そうさ100万ボルトの月夜が回るよ Dance! し・あ・わ・せカーニバル / どんな下手なステップだって あなたらしけりゃ最高! 誰もきっと夢中になれる 愛をさがしてるわ ママも踊ればいいのに みんなが Teen-Age だから涙はふこうよ くじけちゃダメだよ けんかもすぐにキッスで仲直り 髪のリボンを揺らして輝き出すのさ Dance! 素敵なカーニバル 今夜は朝まで眠っちゃいけない Dance! し・あ・わ・せカーニバル)である。第1部のエンディングは「愛になりたい」(作詞・岩里祐穂、作曲・芹澤廣明、編曲・和泉一弥、歌・工藤夕貴:Dream… 金色の星屑を集め 君のイニシャル 落書き Dream… 悲しみに負けちゃダメよ 銀の鏡に呪文をかけたの 夜中にまわしたオルゴール 夢の中まで 君を追いかけてあげる その手で瞳を抱きしめて 私 いつだって あなたの愛になりたい / Dream… 眠れないこんな夜は 月のしずくの ベランダ Dream… 君と そう はしゃいだ日は パジャマの胸が まだふるえてるの 夜空にボートを作るから 夢の波間で も一度踊り出そうよ 心に魔法をかけて 今 私 いつだって そばにいるのよ / 夜中にまわしたオルゴール 夢の中まで 君を追いかけてあげる その手で瞳を抱きしめて 私 いつだって あなたの愛になりたい)である。第2部オープニング曲は「微笑むあなたに会いたい」(作詞・浅見純、作曲・鈴木キサブロー、編曲・矢野立美、歌・工藤夕貴:Shine 木漏れ日が 眩しいのに なぜあなただけ どしゃぶり? Believe 夢かなう 時は来るよ 待っていないで 探そう どうして 自分を それほどに 追いつめているの 似合って いないよ 涙など 悲しみなんかに 負けない あなたに ah ah 会いたい 微笑むあなたに会いたい / Shine にじんでる その瞳に いま夕やけは 見えるね? Believe 約束よ 明日も晴れる あなたの未来 探そう お願い 自分を もう少し 大切にしてね 笑って ごらんよ 今すぐに いつでも私は 優しい まなざし 見ていたい あなたの瞳の奥にも / 似合って いないよ 涙など 悲しみなんかに 負けない あなたに ah ah 会いたい 微笑むあなたに会いたい)である。第2部のエンディング曲が「幸福」(作詞・三浦徳子、作曲・小杉保夫、編曲・矢野立美、歌・工藤夕貴:リボンをほどいた あなたの素顔に 涙がひと粒 こぼれたの… そんな時 そばに いてあげたいけど そうすれば あなた 弱くなるだけね 想い出だけじゃ 生きてはゆけないと 明日は ah ah 気づく… / ひとひら花びらが散るたび 新しい生命が息づいてゆくの… 哀しい気持ちなら 裏側 幸福にさりげなく 近い… / 淋しがりや達 いじわるな言葉 投げかけるけれど わかってる そんな時もっと 傷つくのは誰? 胸の鏡へと 映るのは な・あ・に うつ向くだけじゃ 生きてはゆけないと 明日は ah ah 気づく… 本当の自分さえ知らずに 走り出す季節を青春とゆうの むなしい気持なら 裏側 幸福にさりげなく 近い… LaLa LaLa / 哀しい気持ちなら 裏側 幸福にさりげなく 近い…)である。彼女の日本における代表作は、1907年『金髪のマーガレット』(Cross Currents)偕成社、1908年『Turn of the Tide』(原作本のみで『金髪のマーガレット』の続編ではあるが日本語翻訳本はなし)、1911年『花ひらくビリー』(Miss Billy)、1912年『ビリーの決心』(Miss Billy's Decision)、1914年『ビリーの結婚』(Miss Billy Married)、1913年『少女パレアナ』『少女ポリアンナ』(Pollyanna)、1915年『パレアナの青春』『ポリアンナの青春』(Pollyanna Grows Up)、1916年『自然児デイヴィッド』(Just David)などが有名である。原作本の日本語名では、日本基督教興文協会版の『パレアナ』、中央公論社版の『喜びの本』、角川書店版の『少女パレアナ パレアナの青春』、偕成社版の『少女ポリアンナ ポリアンナの青春』、岩波書店版の『少女ポリアンナ ポリアンナの青春』などが有名である。(柴咲らんど) 

寺村 輝夫(てらむら てるお、児童文学作家、男性、日本人、1928年11月8日-2006年5月21日)東京都出身。『ぼくは王さま』をはじめとする『王さまシリーズ』(理論社)で毎日出版文化賞を受賞。本レベルの作品紹介をすると、絵が和歌山 静子の『たたくとぽん 改訂新版』対象年齢:幼児から~、あかね書房:対象年齢幼児から~、たまごをぽんとたたいたら、ひよこがうまれる。ひよこをぽんとたたいたら、たまごがうまれる……)、『あいうえおうさま』(理論社:登場する王様が、あいうえおの歌のような詩といっしょにずっこけぶりを披露)、『トイレにいっていいですか 改訂新版』(対象年齢: 幼児、小学校低学年、 あかね書房:とうとうがまんできなくなって………)、『ふたごのたまご 改訂新版』(対象年齢;幼児から、あかね書房:ふたごのひよこがかえったら、おなじふくをきて、おなじぼうしをかぶり、おなじくつをはき……)、『こびとのピコ』(大日本図書)、『王さまでかけましょう』理論社、『おおきなたまご 改訂新版』あかね書房、『だれのたまごかな』あかね書房、絵が「いもと ようこ」の『あしたプ-ルだがんばるぞ』あかね書房、『おつきさまでたよ』あかね書房、『ぼくやってみるよ』 あかね書房、『うんどうかいがはじまった』あかね書房、『もうおねしょしません』あかね書房、『みんなげんきで七五三』あかね書房、絵が「村上 勉」の『まいごになったぞう』偕成社、『いいことをしたぞう』偕成社、絵が「長 新太」の『おしゃべりなたまごやき』福音館書店、『ぞうのたまごのたまごやき』 福音館書店、絵が「尾崎 真吾」の『あなにおちたぞう』日本標準、絵が「和田 誠」の『ぼくは王さま』理論社などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月20日 (日)

今日は何の日文学者たち

カール ヘイデンスタム Carl Gustaf von Heidenstam、詩人、小説家、作家、男性、スウェーデン人、1859年7月6日―1940年5月20日)正式な名前は、Carl Gustaf Verner von Heidenstam (カール・グスターフ・ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム)という。日本ではヴェルネル・フォン・ヘイデンスタムとか、ベルナー・フォン・ヘイデンスタムとも通称で呼ぶことがある。1912年、スウェーデン・アカデミー会員となり、1916年、57歳のときにノーベル文学賞を受賞している。彼は貴族の裕福な家庭に生まれた。父は荘園主であっため、幼少期は南部の荘園で過ごし、青年期には南ヨーロッパなどで暮らし、経歴をみる限り、彼は生涯、様々なところを旅するように生活の場を移しているのが印象的で、それが彼の文学を開花させたようである。そのような環境下で、彼は自然科学的なものに興味を示し、ブルジョア文化に根ざした彼独自の感性からなる文学に取り組んだ。特に、新ロマン主義文学に興味を示し、そのこころみは彼の作品を通して感じ取れる。彼は16歳の時に、いとこのエルンスト・フォン・ヘイデンスタム(Ernst von Heidenstam)と両親に送り出され中東、ギリシャ、イタリアに旅行をしている。その後、地中海、そして、パリに行き、パリでは画家を目出した時期もある。そのような感性の豊かさが彼の作風をつくったといえる。1880年にスウェーデンへ帰国した彼は、エミリア(Emilia Uggla)というスイスの女性と結婚する。すると、翌年、1881年には再び、旅立ち、イタリア、フランス、そしてノルウェーで新妻のエミリアと一緒に暮らし始める。それから5年後、1886年に作家オーギュスト・ストリンドベリなどもよく利用したといわれているスイスの北部に所有していた中世の城を賃貸した。1887年にスイスからスウェーデンへ帰国。父親との関係も色々とあったようだが修復し、家族所有の土地、いわゆる荘園主となって彼は住む。ただ、父親のグスターフ・フォン・ヘイデンスタム(Gustaf von Heidenstam)は不治の病に侵されていて、彼が1888年に発表した詩集が好評を博し作家として成功する姿は見ることもなく自殺してしまう。その彼を一躍有名にした詩集VALLFART OCH VANDRINGSÅR, 1888 - Pilgrimage and Wander Years』(巡礼と遍歴の歳月)とは、生前は指揮者としても活躍し、新しい音楽家を積極的に取り上げ、スウェーデンおろか北欧の音楽界全体をリードしたといわれる近代スウェーデンの最高峰に位置する作曲家ステーンハンマル (Karl Wilhelm Eugen Stenhammar 1871-1927)が彼の1888年に発表した詩集の中にある『孤独の思想』と呼ばれる詩の一群から7つ(私の心の奥底に・孤独の中で私の年月は失せてゆく・私の祖先は大きな杯を持っていた・友よ来い、一緒に座ろう・ローマで、若い時ローマで・あなたは名声を求める・あなたは私を愛していた)を選びだし、それらに付曲した管弦楽付合唱曲が有名である。特に曲集の中でも、比較的演奏されるのが第3曲「私の祖先は大きな杯をもっていた」「孤独の中で私の年月は失せてゆく」「あなたは名声を求める」「あなたは私を愛していた」が有名でカール・グスターフ・ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム自身の詩のイメージを高めた。その後、1989年に彼の最初の小説が発表され、彼の執筆の黄金期とされる10年が始まる。彼の世界観は地球規模的な大きなもので詩と散文小説に描かれ読者を魅了した。彼の著述したものは、VALLFART OCH VANDRINGSÅR, 1888 - Pilgrimage and Wander YearsFRÅN COL DI TENDA TILL BLOCKSBERG, 1888ENDYMION, 1889RENÄSSANS, 1889PEPITAS BRÖLLOP, 1890HANS ALIENUS, 1892DIKER, 1895 – PoemsOM SVENSKARNAS LYNNE, 1896KAROLINERNA, 2 vol., 1897-98 - The Charles Men – KaroliinitKLASSICITET ÓCH GERMANISM, 1898TANKAR OCH TEKNINGAR, 1899ETT FOLK, 1899SANKT GÖRAN OCH DRAKEN, 1900HELIGA BIRGITTAS PILGRIMSFÄRD, 1901 - Pyhän Birgitan vaellusA King and His Campaigners, 1902SKOGEN SUSAR, 1904FOLKUNGA TRÄDET, 1905-07 (2 vols.) - The Tree of the Folkungs - Folkungien sukuSVENSKARNA OCH DERAS HÖVDINGAR, 1908-10 - The Swedes and Their Chieftains - Kansa ja sen kuninkaatDAGAR OCH HÄNDELSER, 1909SAMLADE SKRIFTER, 1909PROLETÄRFILOSOFIENS UPPLÖSNING, 1911NYA DIKTER, 1915 - New PoemsSWEDENS LAUREATE: SELECTED POEMS OF VERNER VON HEIDENSTAM,1919The Soothsayer, 1919The Birth of God, 1919UPPSATSER, TAL OCH FANTASIER, 1929TANKAR OCH UTKAST, 1941NÄR KASTANJERNA BLOMMADE, 1941SISTA DIKTER, 1942SAMLADE VERK, 1943-45BREV, 1949 (ed. by Kate Bang and Fredrik Böök)FRAGMENT OCH AFORISMER, 1959 (ed. by Carl Fehrman) DET BEFÄSTA HUSET, 1986BREV 1884-1890, 1999 (ed. by Magnus von Platen)などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月19日 (土)

今日は何の日文学者たち

ナサニエル ホーソンNathaniel Hawthorne、小説家、作家、男性、アメリカ人、1804年7月4日–1864年5月19日)マサチューセッツ州のセーレム出身。根底に宗教的なものを感じる作風で、有名な作品といえば『緋文字』がある。ナサニエル ホーソンの作品については研究家も多く、色々と分析がなされている。宗教に係る善と悪などに関する著書には注目すべきものがあります。彼は4歳で父を失い、母方の実家で育てられながら、学業の傍ら小説を書き、1839年にボストンの税関に就職している。そして、1841年に税関を退職すると、翌年、1842年に結婚。再び文学に興味を抱き、執筆活動を開始している。そして、1846年セーレムにある税関に就職し、またまた1849年に税関を退職する。翌年、1850年に彼の代表作となる『緋文字』を発表し注目をあびる。『緋文字』、スカーレット・レター(緋文字)は、十七世紀ボストンの清教徒社会に起こった姦通事件を題材としたもので、宗教社会の厳格な規律に縛られた特殊な社会における人間心理を描き、清教徒の生活意識や道徳観を超えたところにおける、自由とは何なのか。罪とは何か。善とは何か。人間愛とは何なのか。などを考えさせられる作品のように私は思う。いってみれば、人間として法律に則ってではあるにしろ、姦通を犯したみしるしとして胸に緋文字を縫いつけていなければならなかった主人公の女性の生涯を描いた物語である。私は宗教を理解しない限りにおいて真理を理解しようとするのはこの作品においては難しいように思った。他の作品は1837年の短編集『トワイス・トールド・テールズ』で作家の仲間入りをしてから、結婚後に書いた1850年に発表した代表作『スカーレット・レター』が発表されるまでは、代表作とするようなものは書いていない。その後、『7破風の屋敷』『ブライズデール・ロマンス』を発表し、近代アメリカ文学史を飾る傑作を多数送り出したとよばれる人物となる。(柴咲らんど) 

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2007年5月18日 (金)

今日は何の日文学者たち

平岡 篤頼(ひらおか とくよし、文芸評論家、フランス文学者、小説家、作家、男性、日本人、1929年5月2日-2005年5月18日)大阪出身。早稲田大学名誉教授。アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモン、マルグリット・デュラス、バルザック、メリメなどの翻訳を手掛けている。小説の著者としても才能を開花させ、好評を得るばかりか、文芸の発展のために近年の文芸界に広く深く貢献した人物である。1968年にはクロード・シモン著『フランドルへの道』でクローデル賞を受賞。日本文学評論『変容と試行』などを著し、小説にいたっては『消えた煙突』などで2度の芥川賞候補となる功績がある。翻訳本レベルでの紹介と著作本の紹介をしますと『反復』アラン・ロブ・グリエ著、『三枚続きの絵』新装 クロード・シモン著、『生徒死の間』新装ナタリー・サロート著、『生と死の間』新装ナタリー・サロート著、『路面電車』クロード・シモン著、『カルメン,コロンバ』プロスペル・メリメ著、『赤い罌粟の花』平岡篤頼著、『迷路のなかで』アラン・ロブ・グリエ著、『ロル・V・シュタインの歓喜』マルグリット・デュラス著、『アカシア』クロード・シモン著、『世界の文学セレクション36 21』新装ゾラ著、『フィギュール』ジェラール・ジュネット著、『弑逆者』アラン・ロブ・グリエ著、『フランドルへの道』クロード・シモン著、『木立ちの中の日々』マルグリット・デュラス著、『パリその日その日』平岡篤頼著、『世界文学全集40』メリメ(他)著、『薔薇を喰う』平岡篤頼著、『消えた煙突』平岡篤頼著、『フランドルへの道』クロード・シモン 著、『世界文学全集10 愛蔵版』バルザック著(共訳本)、『ゴリオ爺さん』バルザック著、『新潮世界文学8バルザック2』バルザック著、『従妹ベット 下巻』バルザック著、『従妹ベット 上巻』バルザック著などがあります。(柴咲らんど) 

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2007年5月17日 (木)

今日は何の日文学者たち

ボーマルシェBeaumarchais、劇作家、作家、男性、フランス人、1732年1月24日-1799年5月18日)本名はピエール・オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron)、正式はピエール・オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェというが、通称ボーマルシェと呼ばれている。彼はある意味、多彩な才能を持った美男子であった。21歳までパリの時計屋の息子として生まれた彼は父の仕事を継ぎ、時計の速度(ゼンマイ)調節装置などを発明し、それを利用した小型腕時計などを製造した。野心家というのか、音楽にたけていたのかルイ15世の3人の娘達にハープを教え、貴族に憧れていた彼は宮廷に出入することを果たす。そして、政財界の財産家などと手を結び、王の秘書官と狩猟官の役を金で我が物とするために買いとり貴族となる。1775年にはアメリカの独立運動の独立軍を支援する武器調達もしている。また、水道事業をパリで起こし、公共的な事業にも興味を示した。著作権法についてもフランスでは法的に確立されていなかった本の著作権を認めさせ、文芸協会を自ら設立している。1856年には宮廷官吏の未亡人と結婚。その時点で、妻の所有領であるボーマルシェの名前をなのるようになる。その後、オペラ、フィガロ三部作(作曲はロッシーニ、モーツァルト、ミヨー)を書いて有名人となる。代表作は、『セビリャの理髪師』Le Barbier de Séville1775年)、『フィガロの結婚』La Folle journée ou Le Mariage de Figaro1784年)、『罪ある母』La Mère coupable1792年)などがある。(柴咲らんど) 

海野 十三(うんの じゅうざ、うんの じゅうぞう、SF作家、推理作家、科学解説家、小説家、男性、日本人、1897年12月26日-1949年5月17日)徳島県出身。本名は佐野 昌一(さのしょういち)という。早稲田大学を卒業。逓信省電気試験所に勤務。1928年、雑誌『新青年』に探偵小説『電気風呂の怪死事件』が掲載されデビューする。太平洋戦争の戦時中は軍事科学小説をたくさん書いている。海軍報道班員として従軍した。終戦直後は、戦争責任を感じペンネーム海野十三の使用を一時停止。丘名義で探偵小説などを執筆した。ペンネームの由来がおもしろく、麻雀が大好きであったことから「麻雀は運が十」から「運が十さ」をもじって海野十三(うんのじゅうさ)にしたという説がある。発行本による作品は、赤道南下、海野十三戦争小説傑作集、海野十三敗戦日記、怪奇探偵小説傑作選、日本探偵小説全集、赤外線男、深夜の市長、海野十三傑作選、「ぷろふいる」傑作選、「シュピオ」傑作選、明治・大正・昭和 日米架空戦記集成、ロボット・オペラ、などがある。(柴咲らんど)  

 村松 剛(むらまつ たけし、評論家、作家、男性、日本人、1929年(昭和4年)3月23日-1994年(平成6年)5月17日)東京出身。江戸時代から続く医家で生まれた。学業は東京高等師範学校附属中学校から第一高等学校理科を経て、1954年東京大学文学部仏文学科を卒業し、同大学院でヴァレリーを研究する。「世代」「現代評論」などの同人としても活躍し、1975年(昭和50年)、『死の日本文学史』で第4回『平林たい子賞』を受賞。その後、小説『醒めた炎』で第35回菊池寛賞を受賞。学者肌で、立教大学、京都産業大学、筑波大学、杏林大学の各教授を歴任している人物である。現在、入手が可能な本はユダヤ人迫害・放浪・建国(新書-1963/12)湾岸戦記(文庫-2002/12)、ジャンヌ・ダルク愛国心と信仰(単行本-1967/8)教養としてのキリスト教(単行本-1965/3)などがある。刊行されている本の紹介としては、死の日本文学史 (1981)、帝王後醍醐「中世」の光と影 (1981)、日本文化を考える村松剛対談集 (1979)国際テロの時代 (1978)おおエルサレム! (1980)察しあいの世界日本人の何が「不可解」か (1977)、死はわが職業 (1971)、三島由紀夫その生と死 (1971)、歴史とエロスエッセイ集 (1970)、死の日本文学史 (1975)、評伝アンドレ・マルロー (1972)、評伝ポール・ヴァレリー (1978)、渇愛の時代対談 (1974)、キリストは死んだか (1969)、帝王後醍醐「中世」の光と影 (1978)、仏教と日本人渇愛の時代対談 (1978)、元号ーいま問われているもの (1977)、大量殺人の思想 (1961)、日本をみつめる (1973)、動乱のヒーロー (1971)などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月16日 (水)

今日は何の日文学者たち

北村 透谷(きたむら とうこく、詩人、評論家、作家、男性、日本人、1868年(明治元年)12月29日(11月16日)-1894年(明治27年)5月16日没、25歳)神奈川県出身。本名は北村門太郎。明治22年『楚囚之詩』を発表し、デビューを果たすと日本近代詩に大きなインパクトを与えた作家で近代詩に限らず、思想や評論の分野においても活躍した。彼は明治ロマン主義の作家、浪漫主義運動の先駆といわれている。島崎藤村らと共に文壇で活躍した人物でもあった。彼は小田原藩士族の家に生まれ、明治十四年に一家で転居上京したことから、有楽町の泰明小学校へ転校している。その学校が数寄屋橋「すきやばし」の隣にあったことから「すきや」をもじって号したといわれているくらいこの時期の天候の印象が強かったようである。明治16年に神奈川県会の臨時書記となると、当時の神奈川自由党の石坂昌孝の子でもあり、三多摩の豪農で自由党の神奈川県の青年民権家のひとりとされていた石坂公歴や八王子で教員をしていた大矢正夫と親睦を深めていく。そして、透谷は次第に自由民権運動にのめりこんでいく。ちなみに、石坂公歴という人物は東大予備門に入学を希望していたが受験に失敗し、1985年(明治18年)11月、新橋の美以美(福音会)英語夜学校に入学後、かの有名な大阪事件(おおさかじけん)の失敗をみて1886(明治19)年渡米している。大阪事件は1885年の自由民権運動の激化とともに起こった事件で、もとを正せば、後に日清戦争へと発展する1884年(明治17年)12月の朝鮮における甲申政変で日本国民が何を思ったのか清国との開戦を熱望する機運や風潮が社会に流れたことが起因している。その世間の流れをうけ、多摩壮士と呼ばれていた旧自由党員の急進派の動きが活発化し、日本各地で有志、いわゆる義勇兵を編成し、旧自由党員の大井憲太郎らがその清国に対するエネルギーを日本国内の改革に利用しようと、朝鮮開化派にクーデターを起させる計画を立てる。日清間に緊張関係をつくり、一挙に日本の国内の改革を断行しようとする計画は失敗するが、その事件を「大阪事件」という。計画は武器や弾薬を製造するなど、着々と進む中で行なわれてはいたが、実行前に計画が洩れ、百数十人の逮捕者を出し集結する。事件の中心的な役割を果たしていた大井憲太郎らも当然逮捕されたが1889年、憲法配布の恩赦によって出獄している。加熱していたのは各地の旧自由党急進派で、事件を実行するための陰謀を練った者たちは三多摩・相模地方の民権家たちをバックに勇士を募り、資金の調達に奔走したとされている。それでも活動資金が足りず、資金調達という大義名分をかざし強盗の実行計画までたてられた。そこで、北村透谷も親友の大矢正夫から強盗に誘われることとなる。悩みぬいたあげく、頭を丸めて北村透谷は大阪事件へのかかわりを切る許しを乞い、それ以来、政治活動から透谷は手を引くことになる。その大阪事件を経て、石坂公歴は1886(明治19)年に渡米する。1890年(明治23年)に日本人労働者50人を率いてサクラメント平原にて働いた日本人労働者の先駆者的役割を果たした。1888年(明治21年)には山口熊野や中島半三郎らとともにオークランド・サンパブロアベニューで新聞「新日本」を発刊。1888年(明治21年)1月、愛国有志同盟会(のちの愛国同盟)を設立し、「新日本」のメンバーと合流。その後、色々と事業展開するも失敗し、アラスカに渡り季節労働者などを経験しながらカリフォルニア・モデストの医師宅で暮らこととなる。一生涯独身で、1944年(昭和19年)収容先のマンザナ強制キャンプで失明のうちにこの世を去る。石坂公歴は大義を抱き日本に疲れ、世界に羽ばたいた人物で、彼、石坂公歴の姉である美那子は北村透谷の妻になっている。そのような人間関係の中、透谷は大矢と、八王子川口村の豪農秋山国三郎家に数ヶ月間寄宿することとなる。その時が川口村の困民党が壊滅した直前であり、秋山国三郎が壊滅した困民党の後始末に奔走している姿をみて、透谷は心打たれたのか、わずか半年間の滞在ではあったが川口村、八王子市上川町を「幻境」と呼び、多摩を「希望の故郷」と呼ぶようにそれ以来なった。それらの運動は、透谷の青年時代の心の葛藤が民権運動への参加というかたちであらわれたもののようである。上川口村の老畸人秋山国三郎および志士大矢正夫との交友が深まるに付け明治17年当時の彼は神奈川県を中心に「土岐・運・来」(とき・めぐり・きたる)と染めぬいたハッピをはおり、相当な気の入れようであったようである。この日本が変革、変貌することを願い、説き、彼自身がその起爆剤とならんことを願って、そのこと自体を気概に感じて運動していたようである。ゆえに、彼にとって三多摩での体験が人生の上で大きなウエイトを占めていたことはゆるぎない事実となる。それは、彼が1892年に書いた『三日幻境』に、彼のおもい、尊敬の念を抱く秋山国三郎を紹介していることから推察できる。「――。狂ひに狂ひし頑癖も稍(やや)静まりて、茲年(ことし)人間生活の五合目の中阪にたゆたひつゝ、そゞろに旧事を追想し、帰心矢の如しと言ひたげなるこの幻境に再遊の心は、この春松島に遊びし時より衷裡(ちゅうり)を離れず。幸にして大坂の事ありてより消息絶えて久しき蒼海も、獄を出でゝ近里に棲(す)めば、書を飛ばして三個(みたり)同遊せんことを慫(すす)むるに、来月まで待つべしとの来書なり。我は一日を千秋と数へて今日まで待ちつるものを、今更に閑暇を得ながら行くべきところに行かぬは、あさはかな心の虫の焦つ(いら)を抑へかねて、一書を急飛し、飄然(へんぜん)家を出でゝ彼幻境(かのげんきょう)に向ひたるは去月二十七日。この境(きょう)、都を距(へだつ)ること遠からず、むかし行きたる時には幾度か鞋(わらぢ)の紐をゆひほどきしけるが、今は汽笛一声新宿を発して、名にしおふ玉川の砧(きぬた)の音も耳には入らで、旅人の行きなやむてふ小仏の峰に近きところより右に折れて、数里の山径(やまみち)もむかしにあらで腕車(わんしゃ)のかけ声すさまじく、月のなき桑野原、七年の夢を現(うつつ)にくりかへして、幻境に着きたる頃は夜も既に十時と聞きて驚ろきたり。この幻境の名は川口村字(あざ)森下、訪ふ人あらば俳号龍子(りょうし)と尋ねて、我が老畸人を音づれよかし。龍子は当年六十五歳、元と豪族に生れしが少(わか)うして各地に飄遊し、好むところに従ひて義太夫語りとなり、江都(えど)に数多き太夫の中(うち)にも寄席に出でゝは常に二枚目を語りしとぞ。然(さ)れども彼は元来一個(ひとり)の侠骨男子、芸人の卑下なる根性を有(も)たぬが自慢なれば、あたらしき才芸を自ら埋没して、中年家に帰り父祖の産を継ぎたりしかど、生得の奇骨は鋤犂じより)に用ゆべきにあらず、再三再四家を出でゝ豪侠を以て自から任じ、業は学ばずして頭領株の一人となり、墨つぼ取つては其道の達人を驚かしめ、風流の遊塲あそびば)に立ちては幾多の佳人を悩殺して今に懺悔ざんげ)の種を残し、或時は剣(つるぎ)を挺して武人の暴横に当り、危道を蹈み死地に陥りしこと数を知らず。然(さ)れども我が知りてよりの彼は、沈静なる硬漢、風流なる田人、園芸をわきまへ、俳道に明らかに、義太夫の節に巧みに、刀剣の鑑定にぬきんで、村内の葛藤を調理するに威権ある二十貫男、むかし三段目の角力(すまふ)を悩ませし腕力たしかに見えたり。わが幻境は彼あるによりて幻境なりしなり。わが再遊を試みたるも寔(まこと)に彼を見んが為なりしなり。我性尤も侠骨を愛す。而して今日の社界まことの侠骨を容るゝの地なくして、剽軽(へうけい)なる壮士のみ時を得顔に跳躍せり。昨日の一壮士、奇運に遭会し代議士の栄誉を荷ひて議場に登るや、酒肉足りて脾下(ひか)見苦しく肥ゆるもの多し、われは此輩に会ふ毎に嘔吐を催ふすの感あり。世に知られず人に重んぜられざるも胸中に万里の風月を蓄へ、綽々(しゃくしゃく)余生を養ふ、この老侠骨に会はんとする我が得意は、いかばかりなりしぞ。車を下り閉せし雨戸を叩(たた)かんとするに――(北村透谷「三日幻境」明治25年8月)抜粋」これを読む限り、彼の心の動きと彼の中における秋山国三郎という人物が占めるウエイトの大きさがはかり知れる。彼は政治活動から身を引いてから、1888年、数寄屋橋教会にて洗礼を受けている。同年、1888年石坂美那子と結婚。1894年(明治27年)25歳で世を去る。著書には「人生に相渉るとは何の謂ぞ」「各人心宮内の秘宮」「内部生命論」「楚囚之詩」「蓬莱曲」「人生に相渉るとは何の謂ぞ」「各人心宮内の秘宮」「内部生命論」「処女の純潔を論ず」「文学史骨」「エマルソン」などがある。他の作家などの書物による北村透谷について書かれたもの、あるいは北村透谷について触れているものについては、島崎藤村『春』『桜の実の熟する時』、唐木順三『現代日本文学序説』(『唐木順三全集』第一巻、唐木順三『近代日本文学の展開』、色川大吉『明治精神史』、佐藤春夫『文芸一夕話』、桶谷秀昭『透谷と現代』、塩田良平『北村透谷』、坂本越郎『北村透谷』、舟橋聖一『北村透谷』、宍道達『北村透谷』、笹淵友一『北村透谷』、坂本浩『北村透谷』、平岡敏夫『北村透谷研究』、日本文学研究資料刊行会編『北村透谷』、桶谷秀昭『北村透谷』、小沢勝美『北村透谷』、色川大吉『北村透谷』などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月15日 (火)

今日は何の日文学者たち

  シャルル・ペローCharles Perrault, 児童文学作家、詩人、評論家、男性、フランス人、1628年1月12日-1703年5月15日)彼は日本では『ペロー童話集』の著者として有名である。フランスはパリで生まれ、法律家の父のもと裕福な家庭で育つ。彼はオルレアン大学で法学を学び、学業を終えた後、弁護士として活動する一方、ルイ14世の宮廷に仕え、1671年アカデミー・フランセーズ会員となっている。執筆を開始した当初は詩を好んで書いていたのですが、徐々に詩人として認められるようになると、詩文から当時の民衆の間で語り継がれていた口承の昔話、いわゆる民話を文章化することに興味を持ち、散文を書くようになる。1697年、『サンドリヨン(シンデレラ)』『青ひげ』『赤頭巾』『眠れる森の美女』など、民間伝承の物語をもとに『童話集』を収録する。漠然とした情景を彼の描写で美しく忠実に原型をいかし描かれた作品はフランスだけでなくヨーロッパでも評価され読まれたとされている。その偉大さは彼の死後、百年あまり経ったグリム兄弟のメルヘンのような童話にも大きく影響を及ぼしたといわれている。ここで『赤頭巾』を例に取り一般的に知られるグリム童話の『赤頭巾』とシャルル・ペローの描いた『赤頭巾』について少し書きます。シャルル・ペローのベース、基本的なラインは宮廷を中心とする女性たちが読む物語として書かれたこともあり、本来の民話の残酷さ、卑猥さ、下品さなどのシーンなどは意識して削除し、少し物語をアレンジし話も加えている。『グリム童話』の『赤ずきん』の内容は女の子がお使いを頼まれ、森の向こうのおばあさんのお家に行く途中に一匹の狼と遭遇し、道草をしながらおばあさんの家に向かう。狼は、おばあさんの家に先回りしておばあさんを食べ、そしておばあさんの姿に成りすまし、赤頭巾が来るのを待ち、赤頭巾がおばあさんの家に到着すると、赤ずきんを食べてしまう。お腹が一杯になった狼が寝入ってしまっているところを猟師が通りかかり、狼の腹の中から二人を助け出す。といったストーリーですが、その百年前に書かれたシャルル・ペローの『赤ずきん』では、民話では被っていなかった女の子に赤い帽子をかぶせ、民話ではおばあさんを殺したあと、狼は女の子をだましておばあさんの肉や血を食べさせたりするのですが、そのことも書いていません。また、おばあさんに変装した狼は女の子に添い寝を頼み、女の子の服を脱がせ、暖炉で女の子の服を燃やし、女の子が裸になってベッドに入ってから何か不振に感じ、女の子は逃げだす。といった当時の民話の内容のようなのですが、着ている服を一枚一枚燃やす場面などカットされ、民話に教訓めいたものを盛り込んだ内容になっている。ここで、ちょっと英語名で『シンデレラ』、フランス語では『サンドリヨン』で面白いことがあるので少し書きます。『サンドリヨン』とは「灰で汚れた子」とか、「灰をかぶった娘」という意味で紹介されていますが、それは彼女が朝から晩まで働らかされ、台所でしか眠らせてもらえなかったことからきています。寒い冬になると手足を暖める為に暖かい暖炉の灰の中に手足を入れて暖め、いつも灰で汚れていたことを称して、サンドリヨンと呼んでいたのです。ここで面白いのは、グリム童話とペロー童話のこの物語をモチーフとする教訓のつくりかたの違いです。グリム童話は「意地悪な人は悲惨な運命をたどる」といったように、姉たちは最後は鳩に目を突っつかれて失明する。ところが、ペロー童話の教訓は、「心の美しきものは幸せになれる」といったように、ふたりの姉も宮中に住まわせ、立派な貴族と結婚できるよう取りはからうといったように、少しニュアンスが同じ題名であっても異なってくる。このように、同じ物語のモチーフを物語として描き、自分流に主張を入れて書かれた作品は意外と多いようです。(柴咲らんど) 

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2007年5月14日 (月)

今日は何の日文学者たち

アウグスト ストリンドベリJohan August Strindberg劇作家、小説家、小説家、男性、スウェーデン人、1849年1月22日―1912年5月14日)彼はストックホルムに生まれる。ウプサラ大学を中退し、1874年、王立図書館助手となる。1870年、一幕物を上演。1872年に史劇『メステル・ウーロフ師 Mëster Olof』を発表するが不評に終わる。1888年、『令嬢ジェリー』が好評で、近代リアリズム演劇を開花させる原動力となる。1892年ごろから1896年ぐらいまで精神的に不安定な状態におちいり執筆活動を休止している。小説では島の農民 Hemsöborna、孤独 Ensam、歴史の縮図 Historiska miniatyrer、戯曲では父 Fadren、友だち Kameraterna、令嬢ジュリー Fröken Julie、降臨節 Advent、死の舞踏 Dödsdansen、白鳥姫 Svanevit、夢の戯曲() Drömspelet幽霊ソナタなどを書いている。(柴咲らんど) 

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2007年5月13日 (日)

今日は何の日文学者たち

田山 花袋(たやま かたい、小説家、作家、男性、日本人、1872年(明治4年)1月22日(12月13日)-1930年(昭和5年)5月13日)本名は録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)出身。彼の家は、旧館林藩主秋元家に仕え、江戸時代に山形から館林に移り住んだ家柄である。 明治19年に一家は上京する。館林東学校に学ぶかたわら、旧館林藩儒者吉田陋軒に漢学を学んでいる。その当時から漢詩文ではあるが当時の雑誌に投稿を始めており、文学に目覚める。明治24年に尾崎紅葉を訪れ、作家としての道を歩みだし、英語を学びながら西欧文学に触れ、明治35年に作品『重右衛門の最後』を発表。2年後、明治37年に評論『露骨なる描写』を発表。自然主義の作家として評価された。明治40年『蒲団』の発表し、続いて『生』『妻』『縁』の三部作や『田舎教師』を発表。彼の作風は当時は赤裸々にいかに表現するかであったようで、明治40年に発表された『蒲団』抜粋(冒頭部分:小石川の切支丹坂(きりしたんざか)から極楽水(ごくらくすい)に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」 数多い感情ずくめの手紙――二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て(あえ)烈(はげ)しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟(とどろき)、相見る眼の光、その底には確かに凄(すさましい)じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有(も)っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温い嬉しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都(すべ)て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉(なぐさみ)を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶(もだえ)を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎をこの身が解いて遣らなかった。女性のつつましやかな性(さが)として、その上に猶露(なおあら)わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。――)では、女性との関係を赤裸々に告白するなど、人間の明るさまを表現することを主張している。大正6年の回想録『東京の三十年』や昭和2年には『百夜』などを発表し、彼の世界を確立した。翌年、昭和3年に脳溢血で倒れ、2年後に死去した。代表作は「生」「田舎教師」「蒲団」「時は過ぎ行く」がある。他、「瓜畑」「ふる郷」「重右衛門の最期」「土手の家」「妻」「縁」「一兵卒の銃殺」「河ぞひの家」「河ぞひの春」「新しい芽」「源義朝」「百夜」「源義経」「通盛の妻」「再び草の野に」従軍記「第二軍従征日記」評論「露骨なる描写」「山水小話」「東京の三十年」など多数ある。(柴咲らんど) 

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2007年5月12日 (土)

今日は何の日文学者たち

高見澤 潤子(たかみざわ じゅんこ、随筆家、評論家、作家、女性、日本人、1904年(明治37年)6月.3日―2004年(平成16年)5月12日没、享年99歳)東京出身。本名は冨士子。矗江という筆名あり。彼女は東京都牛込区に生まれた。兄に文芸評論家の小林秀雄がいる。東京女子大学の英語専攻部を卒業。1928年(昭和3年)漫画家の田河水泡(高見澤仲太郎)と結婚する。主な著書に『兄小林秀雄』『兄小林秀雄との対話』『のらくろ一代記』『のらくろひとりぼっち』『ミス・マープルと十三の謎』『長く生きてみてわかったこと』『九十三歳の伝言』『愛されるよりも』『愛の重さ』『愛のあるところ』『愛すことの発見』『ほんものとの出会い』『真実の愛を求めて』などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月11日 (金)

今日は何の日文学者たち

小川 未明(おがわ みめい / おがわ びめい、童話作家、児童文学作家、小説家、作家、男性、日本人、1882年4月7日-1961年5月11日没、79歳)新潟県出身。本名は小川健作。彼は新潟県高田(現上越市幸町)の旧高田藩士の家に生まれ、1888年(明治2年:6歳)4月、岡島小学校(現、大手町小学校)へ入学する。1895年(明治28年:13歳)4月、中頸城尋常中学校 旧制高田中学(現新潟県立高田高等学校)へ入学。1897年(明治30年:15歳)、一家は春日山に移転している。1901年(明治34年:19歳)4月、東京専門学校(現、早稲田大学)予備校へ入学する。1904年(明治37年:22歳)9月、『漂浪児』を『新小説』に発表し、それが彼の処女さくとなり、坪内逍遙から『未明』の号を与えられた。1905年(明治38年:23歳)7月、専門部哲学科を経て早稲田大学英文科を卒業。1906年(明治39年:24歳)5月、長岡市山田藤次郎長女キチと結婚する。1907年(明治40年:25歳)6月、第一短編集として『愁人』を出版。1908年(明治41年:26歳)『秀歳文壇』の記者などをやりつつ、新ロマンチシズムの研究会と称する『青鳥会』をつくっている。1909年(明治42年:27歳)『秀歳文壇』などの記者勤めをやめ、本格的に執筆活動に専念する。1910年(明治43年:28歳)日本で最初の創作童話集といわれている第1童話集『おとぎばなし集 赤い船』を出す。1919年(大正 8年:37歳)3月、労働文学雑誌『黒煙』を創刊。著作家組合会員となった。4月、児童雑誌『おとぎの世界』主宰を勤め、『牛女』『金の輪』などを次々に発表する。1921年(大正10年:39歳)2月、『赤い蝋燭と人魚』を発表。1925年(大正14年:43歳)日本小説家協会員となる。1926年(大正15年:44歳)3月、「日本童話作家協会」創立に参加し、同年、昭和元年4月、小説作家として限界を感じたのか、童話作家になる決意を東京日日新聞に発表し、童話に専念することを自ら発表した。1937年(昭和12年:55歳)5月、童話雑誌『お話の木』を主宰として創刊。1946年(昭和21年:64歳)3月、日本児童文学者協会を創立すると、第五回野間文芸賞を12月に受賞。1949年(昭和24年:67歳)10月、児童文学者協会初代会長になり、1951年(昭和26年:69歳)には芸術院賞を受賞した。印象に残る作品は、アニメーション映画となり、2000年に行われたスペイン国際映画祭で「20世紀に記憶されるべきアニメーション」といわれた青年兵士と老兵の物語の『野ばら』、初めてオルガンの素晴らしい音をきき海を想う『赤い船』、夜に針仕事をしていたおばあさんが眼鏡を買い、その後、展開する物語の『月夜と眼鏡』などである。作品は他にも、金の輪、赤い蝋燭と人魚、月夜と眼鏡、野薔薇、愁人、緑髪、惑星、闇、赤い船、月夜とめがね、野ばら、青空の下の原っぱ、雪くる前の高原の話、はなとみずぐるま、雪原の少年、月夜とめがね、月とあざらし、ふくろうをさがしに、二人のかるわざし、うずめられた鏡、みどり色の時計、太陽と星の下、あほう鳥のなく日、赤いガラスの宮殿、おはなしのまち、野ねずみから起った話他、赤い雲のかなた、おうまのゆめ、よっぱらい星、花と人間の話、おやうしとこうし、心の芽、雪原の少年、たましいは生きている、新しい町、幸福の鋏、青い釦、兄弟の山鳩、一粒の真珠、まあちゃんととんぼ、かにとこすずめ、花の咲く前、角笛を吹く子、僕の通るみち、村の兄弟、赤い魚と子供、山の上の木と雲の話、青いランプ、海から来た使い、愁人、緑髪、惑星、闇、赤い船、月夜とめがね、野ばら、青空の下の原っぱ、雪くる前の高原の話、など多数ある。彼の功績を称え、『小川未明文学賞』(主催:小川未明文学賞委員会・上越市/協賛:学習研究社)が、『日本近代童話の父といわれる小川未明の文学精神人間愛と正義感を次代に継承するために』とのことで平成3年に創設されています。募集内容は、読者対象を小学36年生とした創作児童文学であれば内容や形式は自由です。400字詰め原稿用紙(A4サイズ)50枚から120枚、(ワープロ等の場合は400字詰め換算枚数を明記)、縦書き。となっています。『小川未明文学賞』受賞者と受賞作品による傾向の変化。創設当初の受賞者と受賞作品の傾向は、第1(H4)大賞「おじいさんのすべり台」浜 祥子/優秀賞「パン焼きコンクール」星野 有三・「魔女の子モッチ」井上 夕香、第2(H5)大賞「ウミガメ回遊記」山下 勇/優秀賞「父さんの贈り物」鈴木 由美・「イルカのいない海」佐々木真水、第3(H6)大賞「さかなのきもち」高見 ゆかり/優秀賞「神サマ、出テオイデ」鈴木 ムク・「アレックス先生によろしく」小林 紀美子。最近の受賞者と受賞作品の傾向は、第14(H17)大賞「春への坂道」志津谷 元子/優秀賞「エレーナとオオカミ」新村 としこ・「ご存知、あじさい園でございます」小川 直美。第13(H16)大賞「夏への帰り道」中山 聖子/優秀賞「君だけの物語」山本 ひろし・「ぼくの朝」小松原 宏子。第12(H15)大賞「たぶん、わたしって、すごーくラッキー」今井 恭子/優秀賞「はっけよい、マメ太!」廣田 衣世・「ブルーモンキー」杏 有記、となっています。文学賞に投稿する場合はどのような文学賞に応募すればよいのか、誰しも迷います。そんなときは、自分の作風・文体などと応募しようとする賞の受賞作品に目を通すのもおもしろいと思います。(柴咲らんど) 

萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、詩人、作家、1886年(明治19年)11月1日-1942年(昭和17年)5月11日没、享年56歳)。群馬県出身。群馬県東群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に生まれる。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)の在学中に回覧雑誌『野守』を編集し短歌を発表。1907年第五高等学校に入学し、1908年(明治41年)、第六高等学校に転校するが、中途退学する。1910年(明治43年)、翌年の1911年(明治44年)に慶應義塾大学予科に2度入学するも、両年とも短期間で退学している。1919年(大正8年)5月に上田稲子と結婚。子供2人の父となる。1929年(昭和4年)6月離婚。1938年(昭和13年)4月、大谷美津子と再婚するが、一年余りでまたして離婚。1942年(昭和15年)に『帰郷者』で透谷賞を受賞するも、同年、5月に死去。作品は、小説『猫町』、歌集『郷愁の詩人与謝蕪村』『恋愛名歌集』、評論『阿帯』『港にて』『帰郷者』『日本への回帰』『無からの抗争』『詩人の使命』『廊下と室房』『絶望の逃走』『虚妄の正義』『新しき欲情』、他、『月に吠える』『青猫』『蝶を夢む』『純情小曲集』『氷島』『定本 青猫』『宿命』など多数ある。(柴咲らんど) 

梶山 季之(かじやま としゆき、ジャーナリスト、小説家、作家、1930年1月2日-1975年5月11日没、享年45歳韓国のソウル(旧・京城)で生まれた。広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。在学中に、短編集『買っちくんねえ』(共著)を自費出版している。1953年に上京し、『新思潮』など同人に参加し、創作活動を開始する。「週刊明星」や「週刊文春」の創刊時にも参加した。作家としてのデビュー作は1962年『黒の試走車』とされている。1963年、作品『李朝残影』が第49回直木賞候補となる。作品は、「黒の試走車」「赤いダイヤ」「生贄」「せどり男爵数奇譚」「と金紳士」「銀座遊侠伝」「苦い旋律」「男を飼う」「悪人志願」など他にもたすうある。(柴咲らんど) 

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2007年5月10日 (木)

今日は何の日文学者たち

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、小説家、翻訳家、作家、男性、日本人、1864年(元治元年)4月4日(2月28日)-1909年(明治42年)5月10日没、45歳)長谷川二葉亭(はせがわ ふたばてい)とも呼ばれる。本名は長谷川辰之助(はせがわ たつのすけ)。誕生年月日については、改元で元治となっており、グレゴリオ暦との関係から月日が異なるためカッコ内にグレゴリオ暦で表記しました。ここで、今後のこともありますので話が横にそれますがグレゴリオ暦について少し書いておきます。一般的には今ではグレゴリオ暦は新暦(英語:New Style、略称 N.S.、NS)と呼びます。今では世界各国で使われている暦法で、グレゴリオ暦の前に使用されていたユリウス暦と区別して新暦と呼んでいます。ユリウス暦はどうしても、地球が太陽の周りをまわる周期を元にして作られた太陽暦の一種であるため、1年を原則として365日と定め、4年に1度の閏年(うるうどし、じゅんねん)といって、暦と太陽または月の季節移変運行とのずれ・ぶれの補正(閏)を行わう必要があり、2月に1日を加えて366日とするため、季節とのブレが顕著にあらわれる。それをみかねて、ローマにおいて1579年に教皇グレゴリウス13世のもと、ユリウス暦に修正を加えた太陽暦の一種といわれている新暦法が研究され、グレゴリオ暦が誕生したのである。発布は1582年2月24日、同年10月4日を改定日とし翌日を10月15日とすることを決定した。日本におけるグレゴリオ暦の導入については、1873年(明治6年)1月1日。太陽暦の一種である新暦としてグレゴリオ暦に改めることを1872年(明治5年)太政官布告第337号(改暦ノ布告)によると12月2日(新暦の1872年12月31日)まで使用されていたいわゆる太陰太陽暦の暦法である和暦の天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき:1844年2月18日(弘化元年1月1日)-1872年12月31日(明治5年12月2日の29年間使用))を改めている。そのため、1872年(明治5年)12月の日数が2日間しかなくなり、社会的な混乱をきたしたことはいうまでもない事実である。これは1872年(明治5年)11月9日に布告された。元治元年には有名な事件、1864年7月8日(元治元年6月5日)に起った池田屋事件(いけだやじけん)がある。江戸時代後期、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋で京都守護職配下とされていた当時、治安維持を託されていた新選組が長州藩の尊皇攘夷派が旅館に潜伏していたところを襲撃した事件である。またの名を池田屋騒動とか、池田屋事変などとも呼ばれる場合があるが、そのような社会の変動期であった元治元年に『二葉亭四迷』も生まれているので背景をしるのもおもしろいと思う。話を戻します。有名な話に、父に「くたばってしめえ!」といわれたことが二葉亭四迷の由来といわれている。生まれは江戸市ヶ谷で東京外国語学校の露語科に入学するが中退している。ロシア文学に精通しており、翻訳本の「あひゞき」など、近代文学の発展に寄与した人物である。そういえば、坪内逍遥のすすめで1886年に『小説総論』を発表し、翌年、1887年に三篇構成の三篇末に『完』とあるが、続編が出てきたことから未完とされている彼のデビュー作『浮雲』であるが、一説ではロシアの作家イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』をモデルに書いたとされている。この作品はご存知のように当時、評論などの漢文書下ろし文体で知られていた北村透谷や幸徳秋水など、どちらかというと古典的な筆法が主流であった日本文学界において、近代リアリズムと呼ばれる小説を言文一致文体で書いたことでも有名である。ただ、当時は新文体の模索が盛んな時期で、山田美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(明治元年7月8日)-1910年(明治43年)10月24日、本名が山田武太郎、号は「美妙斎」「美妙子」「飛影」などもある)なども新文体の言文一致運動を活発に行なっている。ある意味、波をつくったと言う意味では山田美妙は新体詩運動の先駆者である。それは、1885年(明治18年)2月、東京大学予備門(後の旧制第一高等学校)の学生だったときに尾崎紅葉、石橋思案、丸山九華らと文学同好会「文友会」「凸々会」をつくり、その後、『硯友社』に発展させ、同年、1885年5月に日本で始めて発刊された純文芸雑誌『我楽多文庫』を創刊したからである。創刊号は筆写本による回覧雑誌であったが、その後、「文庫」と改名するころには、11冊を刊行し、文壇に大きな反響を与え、その趣旨に賛同した、川上眉山、巖谷小波、江見水蔭、挿絵の武内桂舟らが参加し、尾崎紅葉を慕って広津柳浪、泉鏡花、小栗風葉なども参加した。彼らが目指した、二葉亭 四迷と同じ、坪内逍遥による写実主義の影響を受けた心理描写主体の文体を求めたのが先駆者といわれた要因のひとつである。その最たるものが山田美妙の「です・ます」調の小説文体の試みているのもそのいったんである。二葉亭四迷の『浮雲』の第一篇・第一回アヽラ怪しの人の挙動(ふるまい)の文頭を見てみよう。『千早振る神無月ももはやあと二日の余波(なごり)となッた二十八日の午後三時ごろに、神田見附の内より塗渡(とわた)る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸き出でて来るは、いずれも顋(おとがい)を気にしたもう方ゞ。しかしつらつら見てとくと――』から始まる文体は言文一致の実践的文体としては二葉亭四迷も納得がいかなかったようで、第2篇、第3篇と進むにつれ言文一致と称されるツルゲーネフなどのロシア文学を翻訳した影響がでて、リズムを感じさせる文体となっている。それには、裏話があって、第一篇を書き上げた段階で二葉亭四迷は文体に納得がいかなかったため、第二篇を一度ロシア語で書き、そして、日本語に翻訳してから公表したとされている。確かに第3篇・第19回などを抜粋してみるに、第一篇の書き出しとは異なる『こう心の乱れるまでに心配をするが、しかしただ心配するばかりで、事実には少しも益がないから、自然はおのがすべき事をさっさっと行ってお勢はますます深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今はほとんど志をくじき、とてもわが力にも及ばんと投首をした。 が、そのうちにふとうれしく思い惑う事――』といった表現がある。これで、二葉亭四迷のこの作品がなぜ言文一致体小説とよばれるかが、少しでもわかっていただけたでしょうか。当時の文壇は変革期に入り、明治の後期は大正ロマネスク時代を前に大きく変貌を遂げようとしていた。二葉亭四迷も文学に悩み、30歳を越えてから生活苦、離婚、父が亡くなるなど波乱万丈の人生を送ったようである。45歳というあまりにも短い人生ではあったが、これだけ文芸界に寄与した彼には頭が下がる思いがする。作品は出版本レベルも含めて、『小説総論』『エスペラントの話』『浮雲』『平凡』『旅日記 東海道線』『余が翻訳の標準』『遺言状・遺族善後策』『余が言文一致の由来』『予が半生の懺悔』『二葉亭四迷』『肖像画』『片恋』『奇遇』『平凡』『茶筅髪』『私は懐疑派だ』『其面影』『落葉のはきよせ』、翻訳本としては『あひゞき:著者ツルゲーネフ』四日間:著者ガールシン フセヴォロド・ミハイロヴィチ』など多数ある。(柴咲らんど) 

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2007年5月 9日 (水)

今日は何の日文学者たち

フリードリヒ フォン シラーJohann Christoph Friedrich von Schiller、詩人、歴史学者、劇作家、 作家、ドイツ人、1759年11月10日-1805年5月9日)シルレル・シルラーやフリードリッヒ・シラーとも表記されている。シラーといえば日本の有名な作家である太宰治の代表的な短編小説『走れメロス』のモチーフになった作品を書いた人物で有名である。確かに太宰治はシラーの作品『人質:die Bürgschaft』の原文にある登場人物の名前の付け方、太宰治の使っている表現の各部分からシラーの作品、出典をかなり忠実に描いていると思われる。それらが理解できれば、太宰治が短編小説『走れメロス』の末尾に、なぜ、太宰治、自らが添え書きとして『(古傳説と、シルレルの詩から。)』と記さなければいけなかったか、と、いう理由もわかると思う。私は、ここで『走れメロス』という作品名がでてきたので個人的な作品の見解を書いておく。正直、好きではない作品のひとつである。それは、三島由紀夫の『永すぎた春』まではいかずとも王の心理や端役まで、他の心理の叙述をも何でもかんでも描いているからである。いわゆる三人称的客観視点でありながら言葉が悪いが何でもありといった神の視点、天の視点での書き込みが多い短編小説だからである。確かに筆法としてはこれもよかろう、だが、私は好きではない。最近、TVアニメで視点無視の心理描写や視点移動もあるが、それはアニメ・映像の世界であって小説の世界では私は好まない。作品を読んでいると、どうして? なぜ? この人がこの人の心理をそんなことまでわかるの、って思ってしまう。書き手が作品の仮想的空間を外部から作中人物たちを三人称で呼び、描き、その形姿・個性・心理状態などを描く三人称小説においての叙述に際しては、客観視点と作中人物たちの視点の2つを使い分けながら書き進む筆法もわかる。しかし、視点構造を構築する場合において、段階的な視点移動と制限視点の両極が問題となり、私はナレーション的な、シナリオ的な作品にしかおもえず、どうしても感情移入が登場人物のキャラクターにできない。ただ、内容やテーマは感じることはできる。それ以上のものは感じない。太宰治も推論ではあるが、シラーの作品『人質:die Bürgschaft』のテーマが、信頼や裏切り、人と人の結びつきをいろんな形態で表現しているこの作品であったことに、共感したのか、心の迷いのような癒しのような、何かを感じてモチーフとして選んだような気がする。また、余談な話になってしまったのでこの話はこれくらいにして、話を戻します。また、シラーは有名なベートーベンの『交響曲第九』の『合唱曲』の元になった詩『歓喜に寄す』なども書いています。他、有名な『ウィリアム・テル』の原作者でもあり、超有名人で、当時はゲーテなどとも親交があり、共にドイツの古典主義文学を代表する人物といわれました。ワイマールにはシラーとゲーテが同一台座に乗った銅像もあり、シラーの偉大さを思い知らされます。作品は『群盗"Die Räuber"(1781)』『たくらみと恋 "Kabale und Liebe"(1784)』『フィエスコの反乱"Die Verschwörung des Fiesco zu Gunua"(1783)』『ドン・カルロス"Don Carlos, Infant von Spanien"(1787)』『ヴァレンシュタイン三部作"Wallenstein"(1799)』『マリア・シュトゥーアルト"Maria Stuart" 』『オルレアンの乙女"die Jungfrau von Orleans(1803)"』『メッシーナの花嫁"die Braut von Messina(1804)"』『ヴィルヘルム・テル"Wilhelm Tell(1804)"』『デメートリウス"Demetrius"』『歓喜の歌Ode an die Freude (1786)』『ギリシャの神々Die Götter Griechenland (1788)』『散歩Der Spaziergang (1795)』『手袋Der Handschuh (1797)』『潜水夫Der Taucher (1797)』『イビュクスの鶴Die Kraniche des Ibykus (1797)』『ポリュクラテスの指輪Der Ring des Polykrates (1798)』『人質Die Bürgschaft (1798)』『鐘の歌Das Lied von der Glocke (1799)』『凱旋Das Siegesfest (1803)』『芸術の恩寵Die Huldigung der Künste (1804)』などがあります。(柴咲らんど) 

吉田 義昭(よしだ よしあき、脚本家、作家、男性、日本人、1932年1月8日-1989年5月9日青森県出身。誰もが作品名を聞くと知っている脚本家。『アルプスの少女ハイジ』の脚本では、第01話 「アルムの山へ」第02話 「おじいさんの山小屋」第03話 「牧場で」第04話 「もう一人の家族」第05話 「燃えた手紙」第06話 「ひびけ口笛」第12話 「春の音」第13話 「再び牧場へ」第14話 「悲しいしらせ」第15話 「ユキちゃん」第23話 「大騒動」第24話 「捨てられたミーちゃん」第25話 「白パン」第35話 「アルムの星空」第36話 「そして牧場へ」。懐かしいオープニングテーマの『おしえて』(作詞:岸田衿子 作曲:渡辺岳夫 編曲:松山祐士 歌:伊集加代子&ネリー・シュワルツ(ヨーデル)ホルンとハープの前奏の後、ヨーデルのコーラスに導かれて始まる。1974年の第2FNS歌謡祭で特別賞を受賞。歌詞:(ヨーデル)口笛はなぜ 遠くまで聞こえるの あの雲はなぜ 私を待ってるの 教えておじいさん 教えておじいさん 教えて アルムのもみの木よ (ヨーデル) 雪の山なぜバラ色に染まるの あの風はどこに隠れているの 教えておじいさん 教えておじいさん 教えて アルムのもみの木よ (ヨーデル) 眠るときなぜ星はそっと見ているの わらの中なぜいつもあったかいの 教えておじいさん 教えておじいさん 教えて アルムのもみの木よ (ヨーデル))がきこえてくる。エンディングテーマは『まっててごらん』(作詞:岸田衿子 作曲:渡辺岳夫 編曲:松山祐士 歌:大杉久美子&ネリー・シュワルツ(ヨーデル)、歌詞: もしも ちいさな こやのとが あいたら まっててごらん ほら あのこが かけてくる 二ひきの こやぎと いっしょに すきとおった 日ざしの中を もしも ちいさな あしおとが きこえたら まっててごらん ほら あのこが かけてくる もしも とおくで こだまが こたえたら まっててごらん ほら あのこが よんでいる エーデルワイスの花わを あおいそらへ なげあげながら もしも とおくで こだまが こたえたら まっててごらん ほら あのこも うたってる)でした。アルプスの少女ハイジのあと、『フランダースの犬 THE DOG OF FLANDERSが始まり、その脚本も書いています。1:少年ネロ、2:アロアと森へ、3:アントワープの町で、4:新しい友達、5:パトラッシュ、6:がんばれパトラッシュ、15:古い帳簿、16:10サンチームの写生帳、21:船で来たお客さま、です。バックに流れていたフランダースの犬のオープニングテーマ『よあけのみち』(作詞/岸田衿子 作曲/渡辺岳夫 編曲/松山祐士 歌/大杉久美子、アントワープ・チルドレン・コーラス。作詞: LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA ミルクいろのよあけ みえてくる まっすぐなみち わすれないよ このみちを パトラッシュとあるいた そらにつづくみちを LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA パトラッシュ!! LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA こむぎばたけ なみうち かぜにひかる かざぐるま わすれないよ このみちを パトラッシュとあるいた とおいとおいみちを LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA リンゴばたけの むこうで かわいいアロアが よんでいる わすれないよ このみちを パトラッシュとあるいた ながいながいみちを LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA LALALA LALALA ZINGEN ZINGEN KLEINE VLINDERS LALALA LALALA ZINGEN VLINDERS LALA パトラッシュ!!)がきこえる気がします。エンディングテーマは『どこまでもあるこうね』(作詞/岸田衿子 作曲/渡辺岳夫 編曲/松山祐士 歌/大杉久美子。歌詞:パトラッシュ ぼくの ともだち ぼくの いっしょにあるこうね いきがきれてもあるこうね みちのむこうに みちのむこうに まぶしいひかりがさすまで パトラッシュ ぼくの ともだち ぼくの いっしょにあるこうね いきがきれてもあるこうね パトラッシュ ぼくの ともだち ぼくの やすまずにあるこうね ふりむかないであるこうね ホラえのなかの ホラえのなかの てんしのうたがきこえるよ パトラッシュ ぼくの ともだち ぼくの やすまずにあるこうね ふりむかないであるこうね)でした。他にも沢山有名な作品を手がけています。脚本した作品は、1964.10.27日本拷問刑罰史小森白プロ、1970.12.19昆虫物語 みなしごハッチ・竜の子プロ、1971.03.17ムーミン・東京ムービー、1971.09.24ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!・東京テレビ動画、1971.12.12いなかっぺ大将 猫も歩けば雀に当る出ス 当るも当らぬも時の運だス・竜の子プロ、1973.03.17ジャングル黒べえ・東京ムービー、1974.03.21 アルプスの少女ハイジ・ズイヨー映像、1976.07.10吉四六よ天を駆けろ・吉四六プロ、1979.03.17アルプスの少女ハイジ・瑞鷹エンタープライズ、1980.03.15 銀河鉄道999 ガラスのクレア・東映動画、1981.11.28マンザイ太閤記・東京ムービー新社、1982.08.21 巨人の星・三協映画 (助脚本)、1991.08.16 ハックルベリィの冒険・(ヘラルド・グループ・タック)などがある。出版本は、用語南部盛岡藩辞典 (1984) 、神経病学 (1979)  、図説盛岡四百年〈上巻〉江戸時代編 (1983)南部家文書 (1960) 、神経病学、南部銭譜 (1963)、岩手県先史文化資料綜覧〈第2〉岩手県関係考古学文献目録 (1956)、思いやりいのちのスケッチ、神経病学、ガリレオが笑った、空にコペルニクス、岩手県先史文化資料綜覧〈第3〉岩手県考古学年譜 (1959) 、史蹟盛岡城 (1961) 、盛岡明治大正昭和「事始め百話」など多数あります。(柴咲らんど) 

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2007年5月 8日 (火)

今日は何の日文学者たち

中村 雨紅(なかむら うこう、詩人、童謡作家、作家、男性、日本人、1897年1月7日(戸籍上は2月6日)-1972年(昭和47年)5月8日没、享年75歳)本名は高井宮吉(たかいみやきち)。東京出身。彼は、多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社の宮司であった高井丹吾とその妻・シキとの間に次男として生まれた。1909年、上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年恩方村報恩高等小学校を卒業している。1916年東京府立青山師範学校(後の東京学芸大学)を卒業し、同年、東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教壇に立つ。1917年おばの家の養子となる(1923年解消)。翌年、日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、1921年高井宮のペンネームで童謡『お星さん』を児童文芸雑誌『金の船』に発表。1923年(大正12年)に『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚する。1924年長男・喬が生まれ、1926年日本大学高等師範部を卒業後に神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教壇に立つ。1927年長女・緑が生まれた時期に、彼は野口雨情に師事していたため、師の「雨」の一字をもらい、ペンネームを『雨紅』とした。1949年長年の教職生活を退いた。曲の作詞も多く、特に有名な曲に『夕焼小焼』(1 夕焼小焼で 日が暮れて 山のお寺の 鐘がなる お手々つないで 皆かえろ 烏と一緒に かえりましょう /2 子供が帰った 後からは 円い大きな お月さま 小鳥が夢を 見る頃は 空にはきらきら 金の星)がある。他の作詞は『お舟の三日月』『こんこん小兎』『早春』『花吹雪』『花の夕ぐれ』『坊やのお家』『赤いものなあに』『ふる里と母と』『かくれんぼ』『父さん恋しろ』『ギッコンバッタン』『紅緒のぽっくり』『秋空』『海が逃げたか』『荻野音頭』『カタツムリの遠足』『こほろぎ』『子猫の小鈴』『ねんねのお里』『ばあやのお里』『星の子』『みかんとお星さま』などがある。(柴咲らんど) 

ギュスターヴ フローベールGustave Flaubert、男性、フランス人、1821年12月12日-1880年5月8日)ルーアン出身。ギュスターブ フロベールともある。彼は外科医の息子として生まれた。彼を有名作家にした作品は実際にあった事実を小説にしている。内容は田舎の医者シャルル・ボヴァリーの妻であるエンマ・ボヴァリー夫人を描いた物語ではある。日々の淡々とした平凡な安定した生活に飽き足らず無謀にも恋を求め、そして、借金までも……といったところである。その内容が『パリ評論』誌に連載されや、風俗紊乱の罪に問われ、裁判となり、1857年に無罪判決が下りる。その話題に関係からか、同年に単行本を出版すると、彼は一躍、有名作家になるのである。文学界も彼の描いた小説技法を賞賛し、当時の写実主義的な描きかたを認めたようである。事実、ウラジーミル・ナボコフやバルガス・リョサ、ヌーヴォー・ロマンの作家たちも当時、高く評価したような説がある。その後、彼の半自伝(私小説)といわれる小説『感情教育』(1869年)や『サランボー』『三つの物語』『聖アントワーヌの誘惑』などを書いている。作品群は『ボヴァリー夫人』Madame Bovary 1857、『サランボー』Salammbô 1862、『感情教育』L'Education sentimentale 1869、『聖アントワーヌの誘惑』La Tentation de Saint Antoine 1874、『紋切型事典』Dictionnaire des idées reçues 1911、などがある。(柴咲らんど) 

シオドア スタージョンTheodore Sturgeon, SF作家、作家、アメリカ人、1918年2月26日- 1985年5月8日)出生時の名はエドワード・ハミルトン・ウォルドー(Edward Hamilton Waldo)。のち母の再婚により、義父方の姓であるスタージョンに改姓し、正式名称をファースト・ネームまで改名し、シオドア・ハミルトン・スタージョン(Theodore Hamilton Sturgeon)とした。SF作家としての功績は1954年、作品『人間以上』"More Than Human"で国際幻想文学大賞を受賞。 1971年には作品『ゆるやかな彫刻』"Slow Sculpture" で短編部門でヒューゴー賞を受賞している。また、長編では『夢みる宝石』『きみの血を』、短編集『一角獣・多角獣』などを発表しているが、評価の高い短編には『孤独の円盤』『考え方』『ゆるやかな彫刻』などの作品が多数あるので、読んでみてはいかがでしょうか。(柴咲らんど) 

ロバート アンソン ハインラインRobert Anson Heinlein、SF作家、作家、アメリカ人、1907年7月7日-1988年5月8日)ペンネームがアンソン・マクドナルドの時期もある。190777日ミズーリ州に生まれる。1925年にアナポリスの海軍兵学校に入学。その後、海軍士官になるが1934年、病気のために退役。その後、UCLAの大学院で数学を学ぶも、体調が思わしくなく再び病気で退学。以後、職を転々とする。1939年4月に4日間で書き上げたとされている作品『生命線』をアスタウンディング誌に投稿、デビュー作となる。体調も良くなり、1943年に再び海軍に復帰。3年後、1946年、技術士官(航空工学)として退役し、執筆活動を本格的に開始。以後、ヒューゴー賞長編小説部門に作品『宇宙の戦士』、『ダブル・スター(太陽系帝国の危機)』、『異星の客』、『月は無慈悲な夜の女王』が計4回受賞する。作風は初期の長編小説から様々な変遷を経て科学小説的なSF小説を描いていたのだが、『宇宙の戦士』や『月は無慈悲な夜の女王』のように異なった思想的なテーマを描くなど、作風の変化が激しく、作品によっては『異星の客』や『異星の客』など色々な評価が分かれる。おもしろいのはプレゼンテーション、作品の発表の場を通常の作家のように雑誌一辺倒ではなく、『サタデー・イブニング・ポスト』などの一般紙に載せたことである。最後の遺作は『落日の彼方に向けて』である。作品は、Rocket Ship Galileo (1947) 『宇宙船ガリレオ号』、Space Cadet (1948) 『栄光のスペース・アカデミー』、Beyond This horizon (1948) 『未知の地平線』、Sixth Column (1949) Red Planet (1949) 『レッド・プラネット』『赤い惑星の少年』、Farmer in The Sky (1950) 『ガニメデの少年』、The Puppet Masters (1951) 『人形つかい』『タイタンの妖怪』、Between Planets (1951) 『栄光の星のもとに』『宇宙戦争』、The Rolling Stones Space Family Stone (1952) 『宇宙の呼び声』、Starman Jones (1953) 『スターマン・ジョーンズ』、The Star Beast (1954) 『ラモックス』『宇宙怪獣ラモックス』、Tunnel in The Sky (1955) 『ルナ・ゲートの彼方』、Time of the Stars (1956) 『宇宙に旅立つ時』『宇宙兄弟のひみつ』、Double Star (1956) 『ダブル・スター』、『太陽系帝国の危機』、Citizen of the Galaxy (1957) 『銀河市民』、The Door into Summer (1957) 『夏への扉』、Have Space Suit -- Will Travel (1958) 『スターファイター』、Methuselah's Children (1958) 『メトセラの子ら』、Starship Troopers (1959) 『宇宙の戦士』、Stranger in the Strange Land (1961) 『異星の客』、Podkayne of Mars (1963) 『ポディの宇宙旅行』、Orphans of the Sky (1963) 『宇宙の孤児』、Glory Road (1963) 『栄光の道』、Farnham's Freehold (1964) 『自由未来』、The Moon is a Harsh Mistress (1966) 『月は無慈悲な夜の女王』、I Will Fear No Evil (1971) 『悪徳なんか怖くない』、Time Enough for Love (1973) 『愛に時間を』、The Number of the Beast (1980) 『獣の数字』、Friday (1984) 『フライデイ』、JOB : A Comedy of Justice (1984) 『ヨブ』、The Cat who walks through Walls (1985) 『ウロボロス』、To Sail beyond the Sunset (1987) 『落日の彼方に向けて』、The Man Who Sold the Moon (1950) 『月を売った男』、Waldo and Magic Inc. (1950) 『魔法株式会社』、The Green Hills of Earth (1951) 『地球の緑の丘』、Revolt in 2100 (1953) 『動乱2100』『150年後の革命』、Assignment in Eternity (1953) 『失われた遺産』、The Menace from Earth (1959) 『地球の脅威』『時の門』、The Unpleasant Profession of Jonathan Hoag (1959) 『輪廻の蛇』、The Worlds of Robert A. Heinlein (1963)The Past Through Tomorrow (1967)The Best of Robert Heinlein 1939-1959 (1973)Expanded Universe: More Worlds of Robert A. Heinlein (1980)などがある。(柴咲らんど) 

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2007年5月 7日 (月)

今日は何の日文学者たち

野呂 邦暢(のろ くにのぶ、小説家、作家、男性、日本人、1937年(昭和12年)9月20日-1980年(昭和55年)5月7日没、42歳)長崎県出身。彼は長崎市生まれる。1956年(昭和31年)、長崎県立諫早高等学校を卒業。戦時中は諫早市に疎開し、長崎が被爆されたことで戦後も諫早市で暮らした。長崎県立諫早高等学校を卒業後、大学受験に失敗し、上京して店員として働いたが、ほどなく帰郷する。そして、1957年(昭和32年)に陸上自衛隊に入隊するが、翌年、1958年(昭和33年)に除隊する。それから、諫早市に戻って家庭教師の仕事で生活しながら、本格的な執筆活動に入る。1965年(昭和40年)作品『ある男の故郷』で第21回文学界新人賞に佳作入選。翌年、1966年(昭和41年)に作品「壁の絵」が芥川賞候補となる。1973年(昭和48年)第一創作集『十一月 水晶』を刊行。1974年(昭和49年)に配属された北海道千歳市で送った自衛隊の日々を綴った作品『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞する。1977年、歴史小説のデビュー作として『諫早菖蒲日記』を発表。1980年(昭和55年)5月に他界する。他の作品には、愛についてのデッサン―佐古啓介の旅、草のつるぎ、、小さな町にて、丘の火、地峡の町にて、古い革張椅子、一滴の夏、水瓶座の少女、落城記、王国そして地図、鳥たちの河口、戦争文学試論、ふたりの女、日が沈むのを、失われた兵士たち―戦争文学試論、失われた兵士たち―戦争文学試論、海辺の広い庭、猟銃、失われた兵士たち 新版―戦争文学試論、壁の絵、地狭の町にて、文彦のたたかい、落城記、一滴の夏、鳥たちの河口海辺の広い庭、など多数ある。(柴咲らんど) 

山本 健吉(やまもと けんきち、文芸評論家、男性、日本人、1907年(明治40年)4月26日-1988年(昭和63年)5月7日)本名は石橋貞吉。彼は長崎県長崎市で3男として生まれた。旧制長崎中学を卒業し、慶応義塾大学の国文科を卒業。折口信夫に師事。日本の古典詩歌に詳しく、古典作品と現代文学との関係の究明に力を注ぎ、現代文学に関する著作を多く書いた。当時、社会主義的な評論を多く掲げているとされていた改造社(1919年、総合雑誌『改造』を創刊。社会派の総合雑誌としては『中央公論』などもあったが、志賀直哉の小説『暗夜行路』を連載のほか、社会問題でもあった労働などの社会派の記事を掲載していた。思想的な論文では、賀川豊彦や、マルクス主義者でとおっていた河上肇、山川均などの文章を掲載していた)に入社。雑誌『俳句研究』で現代俳句への造詣を深め、『批評』を創刊した。1983年(昭和58年)、文化勲章を受勲。主な著書は、『古典と現代文学』『芭蕉』などがある。また、彼の功績を称え、『山本健吉文学賞』俳句部門、短歌部門、詩部門、評論部門、歌詞部門の文学賞も創設されている。(柴咲らんど) 

第一回(平成13年)受賞者:俳句部門・伊藤敬子『百景』、短歌部門・島田修二『行路』、詩部門・田中清光『再生』、評論部門・田中義信『元禄の鬼才 宝井其角』、宮坂静生『俳句からだ感覚』、歌詞部門・福山雅治『桜坂』。第二回(平成14年)受賞者:俳句部門・黛まどか『京都の恋』、短歌部門・玉井清弘『六白』、詩部門・守中高明『シスター・アンティゴネーの暦のない墓』、井川博年『そして、船は行く』、評論部門・平井照敏『蛇笏と楸邨』、原満三寿『金子光晴の世界』、歌詞部門・ゴスペラーズ『ひとり』。第三回(平成15年 受賞者:俳句部門・山上樹実雄『四時抄』、きくちつねこ『花晨』、短歌部門・大島史洋『燠火』、成瀬有『流離伝』、詩部門・四元康祐『世界中年会議』、評論部門・深沢了子『近世中期の上方俳壇』、仁平 勝『俳句のモダン』、歌詞部門・BEGIN『島人ぬ宝』。第四回(平成16年)受賞者:俳句部門・きちせあや『消息』、短歌部門・佐佐木幸綱『はじめての雪』、詩部門・該当作なし、評論部門・東聖子『蕉風俳諧における<季語・季題>の研究』、歌詞部門・該当作なし。:俳句部門・角川春樹『海鼠の日』、短歌部門・水原紫苑『あかるたへ』、詩部門・季村敏夫詩集『木端微塵』、評論部門・加藤郁乎著『市井風流――俳林随筆』、宗田安正著『昭和の名句集を読む』、第六回(平成18年)受賞者:俳句部門・該当者なし、短歌部門・吉川宏志『海雨』、詩部門・清水哲男『黄燐と投げ縄』、評論部門・うさみとしお著『長谷川素逝 圓光の生涯』、新倉俊一著『評伝 西脇順三郎』、エズラ・パウンド詩集『ピサ詩篇』の翻訳と注釈。第7回(平成19年)受賞者:俳句部門・角川春樹・句集『角川家の戦後』、短歌部門・栗木京子・歌集『けむり水晶』、詩部門・吉田文憲・詩集『六月の光、九月の椅子』、評論部門・前田霧人『鳳作の季節』である。主催者は他にも『俳句界賞』『俳句界評論賞』『文學の森大賞』『文学の森特別賞』などを主催している。

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2007年5月 6日 (日)

今日は何の日文学者たち

佐藤 春夫(さとう はるお、詩人、小説家、作家、男性、日本人、1892年(明治25年)4月9日-1964年(昭和39年)5月6日没、享年72歳)和歌山県出身。彼は下里町で6代続いた懸泉堂という医家の長男として生まれた。父(佐藤豊太郎)は自分の代になってから和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に移り住み、彼が生まれた外科病院を開業していた。裕福な家庭で、父も狂歌や狂句をこよなく愛し、鏡水という号まで持っていた。1909年(明治42年)幼き頃より文才があった彼は創刊号の『スバル』に短歌10首を発表するなど文筆活動を行っている。同年、1909年(明治42年)3月、歌人として有名な与謝野寛、洋画家の石井柏亭、評論家生田長江らを招いた文芸講演会が行なわれることなり、訪れた生田長江、與謝野寛、石井柏亭などと知り合いになった。生田長江の勧めだという説があるのだが、公演会の20分前に『偽らざる告白』と題して講演をした内容が、当時の時代背景にはそぐわない、額に汗して働け、の時代に、「偽らざる告白」を行なったと彼の講演内容が当時の教育界で問題視され、和歌山県立新宮中学で無期停学処分をうける。1910年(明治43年)、新宮中学を卒業し、評論家生田長江を頼って上京する。生田家に世話になり、生田門下に入った彼は、ここで終生の友となる堀口大學と知りあう。この年、1910年(明治43年)に慶應義塾文科の教授に永井荷風がなったことを聞き、堀口大學とともに慶應義塾大学の予科文学部に入学する。翌年、1911年(明治44年)に父の友人でもあり、彼とも知り合いであった大石誠之助が『天皇の暗殺を計画したとされる大逆事件の判決』で処刑され、大石を弔う詩として『愚者の死』を発表する。この詩の内容は、すべてにおいて国や裁判の不正に対して反語的な表現で描かれており、国民の中に憤りを感じていた人々から共鳴、共感を得ている。1913年(大正2年)に同大学を退学するまで『三田文学』や『中央公論』などに寄稿しながら執筆活動を続ける。だが、退学してから文学にいき詰ったようで精神的にも弱り、絵画、特に油絵に心が動かされている。1915年(大正4年)、1916年(大正5年)、1917年(大正6年)に第2・3・4回二科展に連続で入選を果たしている。1916年(大正5年)、神奈川県都築郡中里村(現在の横浜市青葉区鉄町)に犬二匹と同棲相手の女優とともに転居する。彼のその当時の生活を題材とした執筆もあり、その作品が『田園の憂鬱』と『お絹とその兄弟』といわれている。そして、彼が脚光をあびる作品群が次々と世に現れだすのである。転居した1917年(大正6年)には処女作『西班牙(スペイン)犬の家』に感銘を受けたと谷崎潤一郎から手紙をもらい、詩人から散文作家に転じるきっかけになったようである。翌年1918年(大正7年)には師であり友人となった谷崎潤一郎の推薦により『李太白』で文壇に華々しくデビューを飾る。『田園の憂鬱』の元型である『病める薔薇』なども続いて発表する。だが、心が癒されなかったのか精神的な疲れからか、1920年(大正9年)に和歌山県新宮市に帰郷している。そして、米谷香代子とも離婚し、気分転換のためか、心機一転のためか、台湾旅行にも出掛けている。翌年、1921年(大正10年)に『秋刀魚の歌』を発表し、処女詩集として有名な作品『殉情詩集』を刊行する。その頃に、作品『お絹とその兄弟』『美しき町』などを発表する。この年、1921年(大正10年)3月、佐藤春夫と谷崎潤一郎夫人の千代子との恋愛問題が発覚し、谷崎潤一郎と絶交状態になる。その谷崎潤一郎夫人の千代子を想う心境が『秋刀魚の歌』に描かれている。

『秋刀魚の歌』

あはれ

秋風よ

情(こころ) あらば

伝へてよ

――男ありて

今日の夕餉(ゆふ(ゆう)げ)に

ひとりさんまを食(くら)ひ(い)て

思ひにふけると。

さんま、さんま

そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせて

さんまを食ふ(う)はその男がふる里のならひなり。

そのならひをあやしみなつかしみて女は

いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。

あはれ、人に捨てられんとする人妻と

妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、

愛うすき父を持ちし女の児は

小さき箸をあやつりなやみつつ

父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ

秋風よ

汝(なれ)こそは 見つらめ

世のつねならぬ団欒(まどゐ(い))を。

いかに

秋風よ

いとせめて

証(あかし)せよ

かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

あはれ

秋風よ

情(こころ)あらば伝へてよ、

夫を失はざりし妻と

父を失はざりし幼児(おさなご)

とに伝へてよ

―男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食(くら)ひ(い)て

涙をながす と。

さんま、さんま、

さんま苦いか塩つぱいか。

そが上に熱き涙をしたたらせて

さんまを食(くら)ふ(う)はいづこの里のならひ(い)ぞや。

あはれ

げにそは問はまほしくをかし。

彼の『秋刀魚の歌』(1921年(大正10年))は、有名な詩であるとともに、よくサンマの話題のときに出る詩である。そして、彼は1923年(大正12年)に『都会の憂鬱』を刊行し、1926年に大正の批評を代表するとされている『退屈読本』を刊行する。また1929年(昭和4年)には訳詩集『車塵集』を刊行。『平妖伝』『ほるとがる文』などを発表。この間、小川タミと結婚することで谷崎潤一郎との交友を再び復活する。ところが、1930年(昭和5年)タミと離婚し、同年、あの有名な谷崎潤一郎『細君譲渡事件』、谷崎夫妻と彼が話しあい、谷崎の千代子夫人を彼が譲りうけるという三人連名の挨拶状が作成されたといわれている事件が起こった。余談だが、谷崎潤一郎はそれから10ヵ月後の1931年(昭和6)1月に 吉川丁末子と婚約し、同年、4月24日に挙式を上げている。また、翌年1932年(昭和7)12月に丁末子夫人と別居。1934年(昭和9年)10月に丁末子夫人と正式離婚し、翌年、1935年(昭和10年)1月松子夫人と結婚式をあげている。その後、佐藤春夫は1935(昭和10)に芥川賞の選考委員となり、1936(昭和11)には文化学院の文学部長を務める。1938年(昭和13年)『新日本』の編集に携わり、中国戦線におもむき、『東天紅』『戦線詩集』『大東亞戦争』などを刊行。1945年(昭和20年)佐久に疎開し、敗戦を迎えた。1948(昭和23)に芸術院会員となり、1951(昭和26)11月に郷土の新宮の市歌(1 黒潮めぐる紀の南 熊野の都新宮市 蓬莱なりとその昔 徐福もここに来たりとか 山紫に水明(きよ)く 人朗らかに情けあり /2 三つのみ山の一つとて 速玉の神ましませば 水にも火にも砕けざる 金剛の都市新宮市 山紫に水明く 人朗らかに情けあり /3 甍(いらか)連(つらな)る九千戸 伝統深き文化の地 み熊野川の川口に 桴(いかだ)の港新宮市 山紫に水明く 人朗らかに情けあり)を作詞している。また学校の校歌も、新宮市立緑丘中学校を筆頭に、福井県立武生高等学校、群馬県立富岡東高等学校、群馬工業高等専門学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立渋川高等学校、島根県立益田高等学校など数多く手がけている。1952年(昭和27年)『佐藤春夫全詩集』で第4回読売文学賞(第3回までは詩歌賞であったが、この回から詩歌俳句賞と名称変更された)を受賞。1955年(昭和30年)第6回読売文学賞(小説賞)を受賞。1957年(昭和32年:当時66歳)にして新宮を舞台にした『わんぱく時代』を発表。1959年(昭和34年)には秋刀魚にゆかりのある勝浦駅前に『秋刀魚の歌』、郷土を想う『望郷五月歌』が速玉大社境内におのおの詩碑が建立された。

望郷五月歌
『塵(ちり)まみれなる街路樹に 哀れなる五月(さつき)来にけり 石だたみ都大路を歩みつつ 恋ひしきや何ぞわが古里 あさもよし紀の国の 牟婁(むろ)の海山(うみやま) 夏みかんたわわに実(みの)り 橘の花さくなべに とよもして啼くほととぎす 心してな散らしそかのよき花を 朝霧か若かりし日の わが夢ぞ そこに狭霧(さぎ)らふ 朝雲か望郷の わが心こそ そこにいさよへ 空青し山青し海青し 日はかがやかに 南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ 心も軽くうれしきに 海(わだ)の原見はるかさんとて のぼり行く山辺の道は 杉檜(ひのき)樟(くす)の芽吹きの 花よりもいみじく匂ひ かぐはしき木の香(か)薫じて のぼり行く路(みち)いくまがり しづかにも昇る煙の 見まがふや香炉の煙 山賤(やまがつ)が吸ひのこしたる 鄙(ひな)ぶりの山の煙草の 椿の葉焦げて落ちたり 古(いにしへ)の帝王たちも通はせし 尾(お)の上(へ)の道は果てを無(な)み ただつれづれに 通ふべききはにあらねば 目を上げてただに望みて いそのかみふるき昔をしのびつつ そぞろにも山を下りぬ 歌まくら塵の世をはなれ小島(をじま)に 立ち騒ぐ波もや見むと 辿り行く荒磯(ありそ)石原(いしはら) 丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり 若者の憩へるあらば 海の幸鯨(さちいさな)捕る船の話も聞くべかり 且つは問へ 浦の浜木綿(はまゆう)幾重(いくへ)なすあたり何処(いづく)と いざさらば 心ゆく今日のかたみに 荒海の八重の潮路を運ばれて 流れよる千種(ちぐさ)百種(ももぐさ) 貝がらの数を集めて歌にそへ 贈らばや都の子等に』

1960年(昭和35年)第20回文化勲章を受勲、新宮市の初代名誉市民となる。1964年(昭和39年)5月6日、享年72歳でこの世を去った。1989年(平成元年)東京の春夫邸を新宮市に移築し、佐藤春夫記念館がオープン。彼は詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話などにとどまらず、外国児童文学翻訳・翻案などもこなす才能と努力の作家であり、大正・昭和と日本の文学界を引っ張ってきた人物であるとともに和歌山県新宮市の誇りであると私は思う。主な作品を纏めると、1921(大正10)から1926(昭和初期)までの作品には、『殉情詩集』『南方紀行』『都会の憂鬱』、詩文集『我が一九二二年』『侘しすぎる』『李太白』、訳書『ピノチオ』『女誡扇綺譚』『佐藤春夫詩集』『蝗の大旅行』『退屈読本』などがあり、1926(昭和初期)から1935(昭和10)までは『文芸一夕話』『厭世家の誕生日』『支那童話集』『神々の戯れ』 訳詞集『車塵集』『更生記』『心驕れる女』、詩集『魔女』『維納の殺人容疑者』『みよ子』『ぽるとがる文』『閑談半日』、1935(昭和10)から1945(昭和20)に『掬水譚』『絵本FOU』『熊野路』『泰淮画舫納涼記』詩集『東天紅』『戦線詩集』、詩劇『八雲起出雲阿国』、短編集『びいだあ・まいやあ』『山田長政』『奉公詩集』、1945(昭和20)から1955(昭和30)に詩集『佐久の草笛』、中国詩選『玉笛譜』『自然の童話』、詩文集『まゆみ抄』『抒情新集』『近代日本文学の展望』『近代神仙譚』『わが小説作法』『晶子曼荼羅』、1955(昭和30)代には随筆集『白雲去来』『小説高村光太郎像』『観潮楼附近』『小説智恵子抄』『わんぱく時代』『みだれ髪を読む』『わが龍之介像』『小説永井荷風伝』『詩の本』『極楽から来た』『美の世界』『詩文半世紀』『愛の世界』『佐藤春夫文芸論集』などがある。1963年(昭和38年)に作詞されたオリンピック東京大会の『賛歌』は、彼の没後5か月後、1964年(昭和39年)10月10日の開会式で斉唱されました。主な作品は、『殉情詩集』『南方紀行』『都会の憂鬱』、詩文集『我が一九二二年』『侘しすぎる』『李太白』訳書『ピノチオ』『女誡扇綺譚』『佐藤春夫詩集』『蝗の大旅行』『退屈読本』『文芸一夕話』『厭世家の誕生日』『支那童話集』『神々の戯れ』訳詩集『車塵集』『更生記』『心驕れる女』、詩集『魔女』『掬水譚』『絵本FOU』『熊野路』『泰淮画舫納涼記』詩集『東天紅』『戦線詩集』、詩劇『八雲起出雲阿国』短編集『びいだあ・まいやあ』『山田長政』『奉公詩集』詩集『佐久の草笛』、支那詩選『玉笛譜』『自然の童話』詩文集『まゆみ抄』『抒情新集』『近代日本文学の展望』『近代神仙譚』『わが小説作法』『晶子曼陀羅』、随筆集『白雲去来』『わんぱく時代』『みだれ髪を読む』『わが龍之介像』『小説永井荷風伝』『詩の本』『極楽から来た』『美の世界』などがある。新宮市立佐藤春夫記念館(〒647-0003:和歌山県新宮市新宮1番地(熊野速玉大社境内)TEL/FAX0735-21-1755は、昭和2年(1927年)東京都文京区関口町に建てられ、昭和39年(1964年)春夫が72歳で亡くなるまでを過ごした家を故郷の新宮市に移築し、1989年(平成元年)11月に記念館として開館したものです。例年、佐藤春夫誕生日(4月10日)の無料入館が実施されるなど、時期をみ